この間劇場版の『風よ あらしよ』を観たのだけど、関東大震災のあと「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という噂から自警団が朝鮮人(と恣意的に判断した人)を殺して回っている、ということを聞いた伊藤野枝と大杉栄が「そんな噂嘘に決まってる、よく考えればわかる話でしょう」と噂を否定するだけで、実際に殺されている朝鮮人たちに深く心を寄せてはいなかったこと(少なくともそう描写されていたこと)にものすごくひっかかりを覚えたんですよね。
実際の伊藤野枝と大杉栄が朝鮮人虐殺にどういう反応をしたのかわたしは知らないのだけど、足尾鉱毒事件の被害に遭った谷中村を訪ねたとき野枝の深い同情心に心打たれた大杉が「センチメンタリズムを取り戻さなければいけない」と語ったにもかかわらず、ふたりが朝鮮人の虐殺に心を寄せようとしないのは、そこに差別があるからでは? と考えてしまった。
これは実際の伊藤野枝と大杉栄がそうだったならもう少し批判的に描いてほしかったし、そうではなく伊藤野枝を現代のアナーカ・フェミニズムの系譜で描くならインターセクショナルな視点がほしかったよなあ、というわたしのわがままではあるんですが……。同時代の『金子文子と朴烈』(この映画は朴烈のイメージの方が強いですが)を先に観ているから思ったのかもしれない。