『個性のダンバー数』とかいう概念を思いついた
個性のダンバー数とその限界、俺はその外側を見たい
あるいは内側、それらの狭間…
今は、農業革命、産業革命に続く「第三の波」、いわゆる”情報革命”の最中にあると思うんだけど、こういったデジタルの波っていうのは人々の生活や社会を変えただけではなくて、”認識”も変えた、あるいは”認識”のその限界を表面化させたと思うんだよね
例えば今スマホとかパソコンとかで出回っている”ノイマン型コンピュータ”ってのは、電子回路上で電流を流したり弱めたり?(あるいは流さなかったり?)して、それを0と1の2つの記号を使って情報として表現しているみたいなんだけど、それって実際には厳密には、つまりアナログ的に考えたら0と1じゃないのよ
1とされている状態、つまり電流が流れてる状態でもそのアンペア数みたいのは違うだろうし、0とされている状態でもそのアンペア数は違うはず
要はデジタルってのは「中途半端なもんを無視して雑にカテゴリ化していきます」っていう姿勢なのよね
(添付画像はこの「個性のダンバー数」のイメージ画像)
#したい哲学
「ダンバー数」という言葉を差別的な響きとかもあるので異なる表現がいいのかもしれない
「”波”への視力を高める」でも良いかも
なんで”波”やねんって思うかもしれないけど、結局俺が指摘してきた人間社会の物理的な狭さってマクロな意味での土地の狭さとかではなく、 #音と光の有限性 に関する話でしょ?
要は「名前」と「デザイン」が限られているので自ずと世の中で使える名前やデザインもブランド力での奪い合いの争奪戦の対象となって人々が自由に使える名前やデザインがなくなっていって土地やお金のような希少性を帯び始めるというのが #存在認知戦論 の一種の公理だった #公理宣言 //既に宣言済みだったっけ?
これに対して外部デバイスを使ってこれまで見えなかった周波数帯域を可視化させたり、超音波とされていたものを可聴化させていくっていう文明の方向性というか拡張性(そこはある種の認知上の「新大陸」にもなるかもしれない)だと思っていたんだけど、人間がより厳密にこの周波数の差異を認識できるようになればそれも1つの解決策になるのではないのかと思う