宗教差別への反論
ある差別/加害について「信仰/SOGIを口実として利用しているわけでなく、純粋に(純粋とは?)信仰/SOGIからの行為」とみなすことは、
「あいつは〇〇だから加害/差別を表出しても仕方ない」という使い古された思い込みを使い続けることと同義です。
その考えで信仰者に接することは、
加害/差別を行っている者には行為の容認・助長ですし、
行っていない相手に対しては「加害/差別を絶対に表出してしまう要素を持つ予備軍」扱いです。
なお、「仕方ない」でなく「行う前にどうにかしろ」ならば排除です。
尊重といえますか?
そういった考えが差別構造を強化してきたと、これまでどんな分野でも指摘されてきたはずでは?
記事中では日本会議に宗教を紐づけることの問題点についても書いたはずですが、読まれましたか?(というか、所謂国家神道というものが一体何か、分かっていますか?)
そして記事では「宗教右派」という「日本語」の「本邦での使われ方」を論じたはずですが、何故「状況が違う」と言いつつもKKKを並べて話されるのでしょう。
状況が違い、関わる者も違い、実態も違い、元となる考えの源流も違うものを、貴方が「宗教」の箱に入れたというだけで十把一絡げに並べないで頂きたい、と何度も書いたはずですが。
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宗教差別への反論
身分制の温存や排外主義等を、貴方が「神道」と呼ぶものの中でどのような扱いとすべきか、それがどの程度信仰上の根拠のあるものか、議論したいとお考えですか?(それとも信仰の分野に議論はないとお考えですか?)
(所謂)国家神道の特徴は記紀の(一部の)偏重ですが、記紀は読まれましたか?万世一系の考えの元となった箇所についてどう思われますか?
例えばトランス差別に反対するための記事があったとして、それに対し「トランスの誰かが昔こんな問題を起こした、ちゃんとこっちにも言及しろ」などと言い出す者がいたら当然に差別だと思うのですが、
何故こちらにはKKKだの日本会議だの戦争責任だのそれ宗教か…?というようなものばかり、両論併記のような顔で並べてくるんでしょうか。
それを並べること自体が差別的だと何故お分かりにならないのでしょうか。
何度も言いますが、信仰の有無や種類という要素と、差別や加害や犯罪など行為を紐づけるのは差別です。
戦争責任も琉球やアイヌモシリの占領責任も、身分制やルーツによる差別構造を温存している責任も、ニホンジンをやっている者ならばそれぞれ被害者以外は大半の者が(もちろん私も)持っています。そしてそれは信仰の有無や種類だけでは増減しません。
差別的な言動はおやめください。