琉球民族の方々の信仰については私でなく恩師の専門なのでなんとも口をききにくいところなんだけれど、
昨日読んでいた本にも「帝国主義化の過程で、植民地である琉球や朝鮮を無宗教とする説が生まれた」という一文があったな、とふと思い出した
実際にはユタ信仰、聞得大君、中山世譜の天地開闢神話とかあってそれらは現代まで存続しているんだけれど
(なお当時に大和民族側には宗教があったと思われていたのか、というと実はそんなことはなく、当時の認識は「宗教≒キリスト教(プロテスタント)」であり、宗教がある=文明国、宗教(キリスト教)は国家主義の道具として有用、みたいな位置付けで、「自分たちには宗教がない」という強烈な白人社会へのコンプレックスと、「そんな俺たちに統治されている奴らに宗教=文明があるはずがない」みたいな入れ子の差別意識からそういう説が広められている)
補足
このコンプレックスから、逆に
「「宗教」という迷信を持たないからこそ、我々は国家を進歩させることができたのだ、宗教は国家(皇室)と教育勅語に背くものだ」と考えられて(所謂日本的な)無宗教を肯定する流れに繋がりもしています(特に日清日露後から顕著)
この二つの考え方は、明治維新からの百余年で忙しなく優劣を入れ替えながら
・宗教は文明の敵であり国家に混乱を招く迷信である
・かといって、完全なる無宗教は野蛮で野暮で厄介である
・我々は無宗教であるが、代わりに〇〇(教育勅語/道徳/忠君愛国/科学/その他)という独自的価値基準がある
・その価値基準を持たない者は、我々によって教育されるべきである
と変わっていき、
ww1ドイツ敗戦(ニーチェとマルクスの国が負けた!やっぱり宗教は必要だ!)で
「帝国化と国力増強のため、宗教として非力な神道、腐敗した仏教、数の少ないキリスト教等を排して我が国固有の一種の宗教を立てるべき」
という結論に達し、「国力としての宗教」という考えがww2に向けて主流になっていきます
いかに信仰がただ国を纏めるための道具としてしか見られていなかったか、そして「信仰がある/ない」どちらが(国家にとって)尊ばれていてもいずれにせよ差別と支配に利用されました、という話