森見登美彦『有頂天家族』「納涼床の女神」読了。
これ、飄々とした語り口とは裏腹に、とても悲しい、寂しい話なんじゃないかな。読んでてつらかった。零落したかつての偉大な父親(この話では師匠ですが)を、若い女に脂さがり這いつくばる父親を、どうすることもできず、見守ることしかできない。
「愛と幻想のファシズム」に“プライドをコントロールできない父親は刺殺されるのを待っている、分かり合うことなどできない、肩を抱くか殺すしかない”というくだりがあるのですが、これは肩を抱くことにした話なんだと思います。それは失望して殺すより、厳しく困難な道であるはずです。
主人公は、どう生きるべきか分からないから面白く生きることにした、と言っているのですが、面白く生きることにした結果選んだ道が、落ちぶれた先生に寄り添うことで。
先生がかつての栄光を取り戻そうと川べりで鍛錬しているところに、主人公も付き合って一緒にぴょんぴょん跳ねるんですよ。
この光景の、悲しさ、寂しさ、険しさ、優しさ、切なさといったものを、わたしは飲み込みかねています。感想としては、読むのがとてもつらかった、というものになります。
わたしはこの先この本を読んで大丈夫なんだろうか。というか、読み進めることができるんだろうか。

森見登美彦『有頂天家族』「母と雷神様」読了。
優しくて、悲しい、寂しい話だった。
下鴨家次男の矢二郎は、狸社会から脱落し、井戸で蛙として生きている。

社会から脱落したものにも居場所があるというのは、これは救いだと思う。だけど、脱落したものは、脱落なんかしたくないんですよ。
矢二郎兄さんも、蛙になりたかったわけではなく、ただ狸ではいられなかっただけで。狸でいられるのなら、狸でいたかったんですよ。
雷が鳴る時、母上の胸裏にはちゃんと矢二郎兄さんもいるのですが、矢二郎兄さん本人としては物理的母上の側に居たいんですよ。でも、そうできない。
どうにもできないものは、諦めるしかない。諦めたところに、救いはある。救いが確かにあるこの話は優しい。救いは井戸という形で既にもたらされている。矢二郎兄さんには居場所がある。だけどわたしは、この救いの形がとても悲しく寂しい。

あー、あと、矢二郎兄さんは夢野久作の三男みたいだなあ、と思った。
ああいう人に居場所があって生きていけたというのは、わたしにとっては救いだけれど、本人的にはどうだったんだろうな。どうしようもないこと、どうにもできないことはあるよね。

森見登美彦『有頂天家族』「大文字納涼船合戦」読了。
むごい話だった。
大文字焼の夜、下鴨家は空に船を浮かべ観覧するのが慣わしだったが、その船は親族間のトラブルで焼失した。なんとか工面して新たな空飛ぶ船(赤玉先生の茶室)を借りることに成功するが、その茶室はまたもや親族トラブルで残骸となるのだった。

大文字焼きの夜を飛ぶ、その場面はとても良かったんですよ。過去の栄華は取り戻せないまでも、故人を偲び、甘やかだった過去を懐かしむ。
でも、どうしてそのまま終わらせてくれなかったんだろうか。一夜ぐらい、一夜ぐらいは甘美なままで終わらせてくれてもいいじゃないか。

赤玉先生が出てくると、わたしの情緒はメタメタになる。赤玉先生的に、下鴨家の家族イベントに参加するの、勇気の要ることだったと思うんですよね。その、絞り出した勇気が踏み躙られたのが、こう、こう、な!
下鴨家、それぞれの狸の思いも踏み躙られていて。どうしてこんなにむごい話を。

偉大な父親に食われる息子がわたしのヘキのひとつなので、矢一郎お兄様はいいですね、いいですね、たぎります。

森見登美彦『有頂天家族』「金曜倶楽部」読了。
このお話良かった!好き!
母の命の恩人は、父の仇でした。また、父の仇に恋してます。
ままならない。「愛おしい」という気持ちが、望ましいかたちを取ってくれない、悍ましくて美しくて悲しいお話。
この話、誰も辱められてないのがいいですね。父上は尊厳を保ったまま逝った。
このお話は、お話だから、御伽噺だから、美しい。

森見登美彦『有頂天家族』「父の発つ日」読了。
赤玉先生が出てくると、わたしの情緒はめためたになる。今回、お風呂に入るのを嫌がるお年寄りという、わりとこう、具体的なものを出されてしまったために、お父さんが、わたしのお父さんがこうなってしまったらどうしよう、と泣いてしまった。
どうしようと言っても、泣いていても仕方がないので、諦めて、せめて面白おかしく対処するしかないのですが、わたしはまだその覚悟ができていない。

森見登美彦『有頂天家族』「夷川早雲の暗躍」読了。
最終章に向けての助走的な回なので、この話単体では特に感想はないなあ。
下鴨総一郎狸鍋事件の真相が明らかにされる回なのですが、下鴨家の人にとっては既に終わったことなので、犯人が分かろうが分かるまいが、どうでもいいことなんですよね。
有頂天家族は主人公の矢三郎君の講談調の一人称なのですが、一人称だけど講談調なので矢三郎君が知り得ぬことを描写していても、読んでて気にならないんだよな。
あと、お母さんも大概ファム・ファタールなのですが、矢三郎君は興味ないから、お母さんの致命的な女ぶりはあんま言及されとらんな。

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森見登美彦『有頂天家族』「有頂天家族」読了。
矢四郎くんは走り、矢二郎兄さんは古井戸が出て、夷川早雲の悪事は暴かれ大団円。下鴨一家が大立ち回りでカタルシス。
で、思ったのですが、この話の主人公、矢二郎兄さんだな。この話で解決するの、矢二郎兄さんの課題だものな。
でも矢二郎兄さんはずっと井戸の中で悩んでるから動きがなくて、井戸の外にいる矢三郎くんが語り部になっていて。
矢三郎くんの話はこの話が始まる前、赤玉先生と再会しようと決めた時が、矢三郎くんの話だったんだよ。

有頂天家族はつらい話(事故死の父親、空回りの長男、引きこもりの次男、ひ弱な末弟、家計を気にかけない自由な母親、身を持ち崩した師匠etc.)を愉快な語り口で語る話なのですが、わたしはその愉快さをうまく味わえずに読んでしまって。
老いらくの恋で身を持ち崩した赤玉先生が、わたしにはつらくて。愉快には、読めなかった。これ、世間様では痛快な娯楽小説なんですか?なんで?
つらくても、つらさに浸っても仕方ないから、楽しく生きていこうという話ではあると思うのですが。
この話、赤玉先生を介護してるの、矢三郎くんだけなんだよなあ。赤玉先生がどうにかなって悲しんでくれるの、矢三郎くんと弁天様だけなんだよな。

この話を読んでわたしが思ったのは、わたしのお父さんは、わたしのお父さんのまま元気でいて欲しい、というものです。
でも、この話に出てくる父親たちは、そんなわたしの身勝手な思いに応えてくれない父親ばかりで。

で、話は変わるのですが、弁天様と下鴨家のお母さんは複数の男たちから懸想されており、弁天様はその思いを弄び、お母さんのほうはその思いの存在に気付きすらしてなくて。どっちがむごいんでしょうね。

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