ドストエフスキー『地下室の手記』(訳・江川卓)読了。
わたしは自分が大好きで大嫌いなんですよ。ということを、ドストエフスキーは文庫本で240頁ほどを費やして語るんですね。
第一章は取り留めないの思索の奔流、第二章は何故そう成り果てたのか若い頃のとある事件の回顧記となっております。

“ぼくは意地悪どころか、結局、何者にもなれなかったーー意地悪にも、お人好しにも、卑劣漢にも、正直者にも、英雄にも、虫けらにも。”
“およそ自信なさげなうわべだけの軽蔑の微笑でもうかべて、こそこそ自分の穴へもぐりこむしか、もう手がない”
などといった、これは俺のことを言っている、という言葉が第一章は多かったです。
んで、あと、人間は(押せば音が鳴るような)ピアノの鍵盤ではない、と言って近代的合理主義を否定しています。人間に必要なのは“自分独自の恣欲である”と主人公は言うのですが、たぶんそんなものは存在してないんですよね。
そんなものが持ててたら、地下室で手記を書くなんてことはないんですよ。

低い自己肯定感を補うように、釣り合わない自尊心の高さ、過剰な自意識、自己嫌悪と自己愛、自己批判と自己弁護、自己、自己、自己と、自家中毒を起こしてて、主人公の中に他者が存在してないんですね。
これ、俺のことだわ。

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第二章は、20代にして早くも社会的に逼塞しつつある主人公が現状を打破しようと、見下していたかつての級友と旧交を温めるべく、食事会に漕ぎ着けますが、自尊心の高さ故に主人公の目論見は頓挫します。
その後、モグリの娼館にけしこみ、若い娼婦に家庭的な温かさがどうたらこうたらと、よく分からない、本当によく分からない説教を垂れるのですが、そこで娼婦に「なんだか、あなたは……まるで本を読んでるみたいで」と返されるんですね。
ここ、無茶苦茶刺さりましたね。ドストエフスキー、お前、お前の話は、お前の話し方は本みたいだと、言われたことがあるだろう。
んで、こう返された主人公は、お前みたい売女は本当に意味で愛されることなんてねえよ(意訳)といったことを、9頁にも渡って捲し立てます。そして、若い娼婦を感動させることができたと自己満足して、「待ってるよ」と自分の住所を渡します。
なんつーか、とてもつらいね。

だらーと読み進めて、内容なんも頭に入ってねえやと、5,6頁遡って3,4回読み直すということを繰り返したので、読むのにとても時間が掛かりました。
たぶん、書き込みしながら読むのがいいんだろうな。

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