昨年出た『ナチスは「良いこと」もしたのか』 https://amzn.to/3YeCdj0 の書評会に参加する機会がありまして、この本はトランプ的なナチに関する俗説を検証した良書ですが、著者の一人の小野寺先生が、歴史には事実・解釈・意見のレイヤーがある、という議論をされていました。
しばしばこれが混同されるのですが、意見は何を言っても自由でも、事実や解釈に関しては研究で明らかに誤っていると検証されているものもあります。同書は「この俗説は事実としておかしい」と論証したものですが、それを勘違いして「俺の意見表明を抑圧するのか!」とキレる人が続出しているようで…
ただ私はもっと悲観的に思うのですが、意見の前提の解釈、さらに基盤の事実の段階で、このSNSと動画ばやりのポスト・トゥルースの時代では、もはや共通理解が成立しなくなってきているのではないでしょうか。「この史料にこう書いてある」という、いちばん基本のところでもう捻じ曲げられてしまう。
『ナチスは「良いこと」もしたのか』にしても、「意見の前提となる事実関係の確認をしましょう」という“だけ”の本なのに、読んだのか読んでないのか、平然と「ナチスはアウトバーンを作った、経済を回復させた」などと繰り返す人がネットでは目に付くのです。誤りを認めないのです。
誤った事実であっても、ネットで何百回も徒党を組んで繰り返すうちに、それが「事実」であるかのように思い込むクラスタが形成され、いったんそうなってしまうと事実をいくら証拠を示して述べても、さらには訴えられて裁判で負けても、誤りを認めないのです。暇空茜事件はその一例にすぎません。
そんな時代に、そもそも「事実」をもとに適切な「解釈」を行い、そこから妥当な「意見」を導くという手順は、軽視されるどころか意見の自由を奪うものとして憎悪されているのではないか、そんな恐怖を私は最近のネット上の言説から感じずにはいられません。これは歴史にとどまる話ではないでしょう。
こっちでFedibirdの方のポストをブーストしたら、Blueskyのブリッジアカウントのほうでその方のブリッジアカウントをブーストしている。すげー
ほぼ生活、ときどき音楽を聴く、映画などを観る。お酒が好き。FXをやっている。LDHのことを気にしがち。she/they