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『アメリカン・フィクション』観た

黒人のステレオタイプが詰まった"ゴミ作品"なんか誰でも書ける、と売れない黒人作家が当てつけで書いた小説が売れてしまうアイロニカルなコメディ。

仕事の停滞に家族の介護に…と中年の普通の問題に直面してる主人公が、世の中が求める黒人の物語に、ステレオタイプに俺を嵌めてくれるなという気持ちがよくわかると同時に、比較的裕福でエリートで高尚な意識をもつ人間の嫌味な見下しがあるのも面白くて。
彼は白人の意識を内面化して黒人嫌悪をしてたのだと思った。選考会の時に彼が目にした写真が表すのがそれなのかなと。自身のその内面化に気づいても、属性は、黒人であることは変わらない。"世の中の求める黒人"に自分を明け渡しながらも戦っていこうという姿が、嫌味は消え爽やかな哀愁ある中年の成長という感じで、面白かった。

大衆に受けなければ表現し続けていけない?とか、作者と表現されたものとは一体か?とか、興味深い事が盛り沢山。表現はステレオタイプを壊しもするが、強化もするのが難しいところだよね。映画を観てるお前もそうじゃないの?と刺してくるところも良いよ。

白人の言う多様性のお粗末さとか、結局差別への罪悪感を拭うためにまた黒人を使っている等はブラックなコメディとして面白かった。

『アメリカン・フィクション』続き

アメリカでの黒人の状況を扱うこの作品をこう観るのは良いことなのかはわからないけれど、自分の場合だと「女性」のステレオタイプに反発したい気持ちが近いところかな、と思ったり。恋愛してない、結婚してない、子供いない、女友達との付き合いは淡白、所謂女性らしいもの・ことは別に好きでないなどなど…の中で、女性らしさを求められたら、うぜーーーー!それは私のリアルではない!!ってなるし、自分の中に存在するミソジニーはそういう所から来ていると思う。拗らせてはいけないと思っている。

主人公が嫌なやつ、というか嫌な所のある人間が正確だね、なので好みの作品だった。
あと、兄弟の関係が割となんでも言える感じで良かったなと。それは中年になったからなのかもしれないが。

表現物をジョニーウォーカーで例えているところが、商業性と芸術性のせめぎ合い的な様子で面白かった。表現者自身も、売れることと、表現物が受け入れられることと、評価されること、がごっちゃになるんだな、とかね。そこにアイデンティティが関わってきたりして、大変だなぁ。

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