大学内でやることの意義は、毎週決まった時間に集まって、最初から最後まで逐語的にちくちく議論することを習慣化できることではないか。
発表担当になれば(ことによるとわずか数ページの)担当範囲に対して、読解対象の性質によるけれども、場合によっては20時間、30時間とかかけてレジュメなどを準備するわけです。これは精読するって大変やね、きっと普段読み流している他の本もそうなんだろうなという想像力を与えてくれる。
こういうのも高い意欲のあるひとが集まれば別に大学でなくでもできる。
とはいえ準備時間がネックになり、どこかで割り切りが必要になることが多いと思う。
一方、ファシリテーションに関して言えば会社員など別のところでの経験がプラスになると思う。
大学外の読書会がどう、といった話題がTwitterで出ていたのか。言われてたのは大学内外とかではなくファシリテーションの問題に属すると思う。
最も重要なのは、みんな限られた時間を割いて来てくれているということに感謝し、なるべく不満が残らないようにすること。
・ファシリテーション(司会進行)を適切に行う
- ファシリテーターを決めておく
- 脱線しそうになったらその場で軌道修正する
- 発言機会を偏らせない。特に、独演会にならないようにする
- 毎回の終わりにフィードバック時間を設ける
- ファシリテーター自体を持ち回りにする
・目的とルールを定め、合意する
- 茶飲み話でいいならそれでよし
- テクスト読解ベースでやるならそのように
・メンバーが互いに敬意を払って協働する
- 自分の知見を出し惜しみせず与える
↑ただし独演会にならないように。メンバー全員がもっとも気をつけるべきポイント
- レジュメを切るのも良い
- 他メンバーに対して敬意を払った話し方をする
- 差別発言など暴力的発言は厳しく制止する
・読解対象に対する敬意を忘れない
- テクストが「他者」(一個の構造物)であるという心構え
↑今回紛糾したポイント。大学内外とか目的が雑談かとか関係なく大事!!
拡散不希望だが、意見を書いておくか……
教養って現代的観点からみれば、任意の一定の範囲の知識やそのアクセス手段のパッケージ、くらいまで抽象化されている。国家が要請するなどの要素は希薄になっており、ただちにはナショナリズム的な色彩を帯びない。が、そうした任意性によってイデオロギー性はむしろ増しており、どういう属性の誰がリーダーとなってどのようなパッケージを提出するかをめぐる闘争が絶え間なくある。そのためTwitterなどではしばしば、さまざまな嫌味が言われている。
実際問題として、新しい情報(以降、文芸作品を例にする)を受け入れる態度を培うために、ある範囲での一定の見識を得ておいたほうがよく、教養の吸収は避けられない。『必読書150』ではないが、文芸作品に関しては150という数字自体は妥当に思われ、おおむね一定範囲のものを100〜200個鑑賞することで見えてくる地平は、私自身の経験から、確かにあると思う。そうした必要性はあるが他方、大きくは出版物、公開ブログなどを経て、先達との直接の会話からそうした教養養成の方針が伝授されるとき、そこには「教える・発信する側の権威」が伴わざるを得ない。それを発信者・受信者の双方が理解し、権威性を意識することで「操作」できるようにしたい。
拡散不希望だが、意見を述べておくか……(ので公開トゥート)。
まず前提としてどんな表現も、なにか特定のシーケンス(プロットが身近だがそれに限らない)に還元しようとしたときに、必ず余剰をもつ。それはしばしばmedium specificityに関連する。その余剰を削ぎ落として、望んだシーケンス「だけ・純粋に」取り出せるのかというと、そこまでは言えず、パキッとは分けられないし下手をすると相互依存している。
が、それは区別ができない・還元作業が失敗するということではなく、100%完全でなくてもやはりメディア横断的な本質っぽいものを抽出できる。でなければアダプテーションとか無理である。
で、いくらなんでも意地悪な言い方だとは思うけれども、少し気の利いた鑑賞をしたいときに、medium specificityに関する論点を見つけようと初めから構えて、鑑賞がそれに引きずられてしまうことはないか。恒常的だとそうした傾向自体に気づきにくくなると思う。
思うにそういう場合、ミクロスケールの表現か、作者・読者概念といった最大スケールかに注目が偏りがちではないかと思う。それに加え、そこそこ広域なシーケンシャルな表現(プロットなど)という中間的なスケールの現象にも平等に目を向けることが大事なのではないだろうか。(社説)
二次創作小説とTRPG | 1992 | he/him | サークル・金星のこととか