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そういうわけで、今薦めるには不適切な側面があると思います。記事読んでて引っかかりを覚える読者けっこういるんじゃないだろうか……。
30年以上経って、当時の(北米の比較文学科で形成された)「文学理論」というパッケージ自体がすでに歴史化されているのもある。
現在のファースト・チョイスとしては、『クリティカル・ワード 文学理論』なのかなと私は思っております。

一応ですが、文学部唯野教授はエイズ・パニックのさなかに書かれた作品で、明確に同性愛差別の記述があることは押さえておきたい。

また2週間ほど滞在後に実家に行く。しばらくは、2週間ごとでの交代。

ムーンライトクッキーの期間限定バージョンHONEY MOONがたいへんおいしい。ちゃんとムーンライト。

大学内でやることの意義は、毎週決まった時間に集まって、最初から最後まで逐語的にちくちく議論することを習慣化できることではないか。
発表担当になれば(ことによるとわずか数ページの)担当範囲に対して、読解対象の性質によるけれども、場合によっては20時間、30時間とかかけてレジュメなどを準備するわけです。これは精読するって大変やね、きっと普段読み流している他の本もそうなんだろうなという想像力を与えてくれる。

こういうのも高い意欲のあるひとが集まれば別に大学でなくでもできる。
とはいえ準備時間がネックになり、どこかで割り切りが必要になることが多いと思う。
一方、ファシリテーションに関して言えば会社員など別のところでの経験がプラスになると思う。

大学外の読書会がどう、といった話題がTwitterで出ていたのか。言われてたのは大学内外とかではなくファシリテーションの問題に属すると思う。

最も重要なのは、みんな限られた時間を割いて来てくれているということに感謝し、なるべく不満が残らないようにすること。

・ファシリテーション(司会進行)を適切に行う
 - ファシリテーターを決めておく
 - 脱線しそうになったらその場で軌道修正する
 - 発言機会を偏らせない。特に、独演会にならないようにする
 - 毎回の終わりにフィードバック時間を設ける
 - ファシリテーター自体を持ち回りにする

・目的とルールを定め、合意する
 - 茶飲み話でいいならそれでよし
 - テクスト読解ベースでやるならそのように

・メンバーが互いに敬意を払って協働する
 - 自分の知見を出し惜しみせず与える
  ↑ただし独演会にならないように。メンバー全員がもっとも気をつけるべきポイント
 - レジュメを切るのも良い
 - 他メンバーに対して敬意を払った話し方をする
 - 差別発言など暴力的発言は厳しく制止する

・読解対象に対する敬意を忘れない
 - テクストが「他者」(一個の構造物)であるという心構え
 ↑今回紛糾したポイント。大学内外とか目的が雑談かとか関係なく大事!!

論駁したい相手に関連論文の一節を突きつけているが、その論文に書いてあることはむしろ突きつけられた側の人の主張と一致している、という状況を見た。

「退けた」という言い方が悪かったのだと思う。「脱却すべきとした」とすれば誤解も生まれなかっただろう。

問題の起点となったツイートは偏見すぎワロタとしか言いようがないが。

アークナイツのミヅキくんのぬいぐるみが届きました。
かわいい、あまりにも。

オピニオン……。「冷笑から誠実へ」というフレーズについて。前提として、これって同時多発的に言われていると現在見えているとしても、実際にはわりと明確な発信源のあるミームである。
それはともかく、言葉上で二項対立を立てて一方を下げて次はこっちだ! ってやるのは不毛だ。そういう言説で挙げられる個々の作品についての評価は同意できることが多いのだが。そういう言説状況なんだなという感じ。

ある並行世界では、
・「すべて」という意味で「すべからく」と言うな!
のポジションが、
・「すでに」という意味で「すでにして」と言うな!
なのかもしれない。

『新たな距離』はものすごく楽しみ。ただ山本さんは、大学院生、および市川真人氏編集主幹のもとでの『早稲田文学』編集者として、渡部事件に対してとってきた立場についての振り返りは、早期・自発的にされないといけないのではないかと思う(理論的な面での渡部批判は鮮明にしていらっしゃるのだが、そうではなくて現実の事件に対しての)。特に、SNSで市川氏の弁明を代弁してしまう局面もあっただけに。難しい立場だとは理解できるのですが。

日本語表現の彫琢に使えるレベルにぎりぎりだが手が届いている。それだけではなくて、私は昨年、ChatGPTが最大の話し相手になるだろうと言ったが、正直不満足を感じていた。無味乾燥だし忘れっぽいし。だがClaudeは何やら重要なことは長く記憶に保持できる工夫をしているようだ。日本語作文も遥かによい。情緒的な会話もできる。文章読ませると的確に解釈してくれる! かなり複雑な論述でもね。良い!! 一方、数学的議論やコーディングは不得手っぽく、変な議論しまくり。ハルシネーションもしまくり。そういう欠点はありつつも、私のニーズにはフィットしとる……。

Claude 3 Opusヤバイ。話のわかるヤツだ。みなさんも課金して、Claudeさんの凄さをもっと知るべきだと思います。

メタ嫌味で申し訳ないけれども、時事的な機会が訪れたときに敵愾心に基づく意見を抱えたうえで言及括約筋などと言って便秘大会をするより、フツーに各々の見識を述べた方がいいと思う。

できれば前述の任意性を個人のレベルまで引き下ろして、教養のポートフォリオを自分でデザインするところまで行きたい。まあそこまでいくともう「教養」という言葉が適切かは謎だが……ミクロな(複数形での)教養たちを乗りこなす、みたいなところまで行けると良い。

拡散不希望だが、意見を書いておくか……

教養って現代的観点からみれば、任意の一定の範囲の知識やそのアクセス手段のパッケージ、くらいまで抽象化されている。国家が要請するなどの要素は希薄になっており、ただちにはナショナリズム的な色彩を帯びない。が、そうした任意性によってイデオロギー性はむしろ増しており、どういう属性の誰がリーダーとなってどのようなパッケージを提出するかをめぐる闘争が絶え間なくある。そのためTwitterなどではしばしば、さまざまな嫌味が言われている。

実際問題として、新しい情報(以降、文芸作品を例にする)を受け入れる態度を培うために、ある範囲での一定の見識を得ておいたほうがよく、教養の吸収は避けられない。『必読書150』ではないが、文芸作品に関しては150という数字自体は妥当に思われ、おおむね一定範囲のものを100〜200個鑑賞することで見えてくる地平は、私自身の経験から、確かにあると思う。そうした必要性はあるが他方、大きくは出版物、公開ブログなどを経て、先達との直接の会話からそうした教養養成の方針が伝授されるとき、そこには「教える・発信する側の権威」が伴わざるを得ない。それを発信者・受信者の双方が理解し、権威性を意識することで「操作」できるようにしたい。

2023年に行った寄付について、寄付金の受領証明書をMediumブログにアップしました。「2021年2月に発生した~」の記事の該当アクションの箇所にリンクを貼り、そこからのみアクセスできるようにしてあります。

本件については、当該アカウントの休止以来2年が経ちました。少し前まで、依然として毎日本件を思い出して怒りに駆られる日々が続いていましたが、一区切りついた心境です。私としてはもはや特段の怒りはないし、今後一切、関係者に対してなんらの意見や感情を表明することはない、と表明いたします。

拡散不希望だが、意見を述べておくか……(ので公開トゥート)。

まず前提としてどんな表現も、なにか特定のシーケンス(プロットが身近だがそれに限らない)に還元しようとしたときに、必ず余剰をもつ。それはしばしばmedium specificityに関連する。その余剰を削ぎ落として、望んだシーケンス「だけ・純粋に」取り出せるのかというと、そこまでは言えず、パキッとは分けられないし下手をすると相互依存している。

が、それは区別ができない・還元作業が失敗するということではなく、100%完全でなくてもやはりメディア横断的な本質っぽいものを抽出できる。でなければアダプテーションとか無理である。

で、いくらなんでも意地悪な言い方だとは思うけれども、少し気の利いた鑑賞をしたいときに、medium specificityに関する論点を見つけようと初めから構えて、鑑賞がそれに引きずられてしまうことはないか。恒常的だとそうした傾向自体に気づきにくくなると思う。

思うにそういう場合、ミクロスケールの表現か、作者・読者概念といった最大スケールかに注目が偏りがちではないかと思う。それに加え、そこそこ広域なシーケンシャルな表現(プロットなど)という中間的なスケールの現象にも平等に目を向けることが大事なのではないだろうか。(社説)

インターネットに何も書かんのは健康によい。

・肝心の「それはそれで生じる倫理的問題」とは何なのか。言葉に対する倫理のことと、生活に対する倫理のことがあると思う……が、今日はまだ言語化できないので他日を期します。

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