大して親しくもない他人に外見を「ちょうどいい」などと評されたら実際は多分何も言わないけど殺意を抑えられるか自信がないな。だ れ が お前の評価を気にすると言った……
フィクションにおいて、前よりエアー中年エアー妙齢エアー老人に違和感感じやすくなった。その年齢でそんな弱り方はしないねえとか、その年齢でその仕事なら枠は新人のはずだねえとか、その年齢で老人ホームは多分入居できないし加齢にマイナスイメージありすぎだねえとかとか。
ごく普通の国会が、十数年ぶりに戻ってきたかもしれない。
https://www.47news.jp/11913533.html?utm_source=twitter
このたびノーベル平和賞を受賞した日本被団協は、チェンジドットオーグ上で日本政府に核兵器禁止条約の批准を求める署名活動をしています🕊️
「核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願い」
(日本被団協 田中熙巳さんの授賞式でのコメントより)
https://www.change.org/p/no-more-hibakusha-日本政府に核兵器禁止条約の批准を求めます?utm_medium=twitter&utm_source=tw-social-post&utm_campaign=jp-tw-post565
「日本が売られる」という事自体は、例えば水道、例えば公的医療保険、或いは公共性の高いものの運営を一般企業、私企業、営利企業に任せる危険性の指摘である場合にはそれは共有できるところがあるのは間違いない。
堤未果もそのテイで来ている。
しかし、問題は公共性の高いものを一般企業・私企業・営利企業の手に委ねる事にある。
そこには経営陣の国籍や資本が国内なのか国外なのかといった部分は関係が無い。
国内資本の企業であってもそれは許されないはず。
そこを見誤るととんでもない話になる。
堤未果のあの本は、敢えてそこを「海外」にしている。
それによって何が惹き起こされるかは一目瞭然。
あの頃からリベラル的な層からも「海外に買われる。危険。」という誤った理解と、それに基づく外国(人)嫌悪感情が高まった。
そういった海外に買われる海外の悪党海外の強欲資本主義に買われるというような声が強くなった。
問題は海外を外したとこ、買われるというとこ悪党に買われるというとこ強欲資本主義に買われるというとこなのに。
あの本の作者と喜んで取り上げていたリベラル風味のメディアの罪は大きいと思っている。
新聞も取り上げていたし、TVだって取り上げた。TBSのサンデーモーニングとかでもやった。
ベトナム語では略称をよく使う。政府公式ですら、「ベトナム社会主義共和国(Nước Cộng Hòa Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam )」を平気で NCHXHCNVN と書く。
昔、共産主義バリバリだった頃のベトナムでは、
A: XHCNってなんの略か知ってるか?
B: Xã Hội Chủ Nghĩa (社会主義)だろ?
A: 違うね、Xếp Hàng Cả Ngày (一日中並ぶ)だよ
というアネクドートもあった。
それは置いておいて、最近私は妻に帰宅連絡を入れるときも「BGPV」の4文字である。つまり Bây Giờ Papa Về(今パパ帰る)の略である。
今日はちょっと残業したので、PCVD(Papa Chưa Về Được:パパ未だ帰る能わず)と打ったところ、妻は解釈を以下のように間違えたが、結局意味は通じていた。
妻の解釈は、PCVD: Papa Có Việc Đột xuất(パパ有る業務突然)であった。
@Shimaneko1985
やはり子供の頃に、家で食べた鰻の小骨が喉に引っ掛かって取れないので親に見せると、「やるだけやってみる」とピンセットを使ったら一発で取れて「奇跡だ!」と2人で大喜びしたことがw
「ここにある一切は、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである。」―「彼自身によるロラン・バルト」扉表紙