国語教育。武蔵野大学准教授。博士(教育学)。文法教育が他領域と関連をもてていない原因を歴史的に研究しています。植民地における言語教育にも興味があります。トムヨークと佐藤天彦がすき。書き込み内容は所属組織と無関係です。
本日も優勝してしまった。すまねぇな。
この時間でもつながらないの草。やばいな
(日程的に全国大学とかぶりそうだなあ……)
あっもうチケット売ってるの!? ふふふ(謎)
Oasisの来日公演、来年10月か。それまでは絶対に死ねない。
という「自説の開陳」でした。SNSなんでチラ裏でもゆるしてください。
ただ、仮に立場のちがうもの同士で、共通の「文脈=問い」を立てようという機運が高まっても、実際にそういう議論をするのはおそらくSNSではむずかしいよね……
論理的に「正しい」立場は片方に決まるのだろうけれども、だからといって相手の「答え」が「間違っている」ことを指摘したところで、相手は「答え」を変えようとはしない。それは教室という、かなり長時間会話が行われる(しかも権力勾配もある)場所でもそう。だとしたら、別の方法を考えないといけない。
必要なことは、どんな「問い」まで戻ったら認識を共有できるのか、あるいは新しいどんな「問い」を立てうるかというところなんだろうと思う。でも現状はおたがいの「答え」が「間違っている」ことの指摘に時間が費やされている。たぶんこれでは「答えの変化」は生まれない。
ちょっと話が飛ぶけど、いまのSNSの非対話的な状況も、この「問い(文脈)」が共有されているかどうかの問題なんだろうと思う。みんな「(自分の文脈での)答え」ばかり書いていて、おたがいの違いを皮肉っている。「答え」どうしは相容れにくいので、対話的な議論になりにくい(それはときに同じ「右翼」どうし、「左翼」どうしであっても)
授業でぼくができること(やるべきこと)は、学生が議論し続けるための文脈=「問い」を示すこととなんだろうと思う。「答え」はいろんな意味でそんなに必要ではない。
学生の側に「問い」があって、ぼくの話が「答え」に対応していれば、ひょっとすると響くかもしれない。でもそれを抜きにいきなり「自説の開陳」が行われても、寝るか、無視して別のことをコメントするかになる。
だれも「ぼくの自説の開陳」など望んでいないということをあらためて確認しないといけない。授業の話。
次は空き時間。ためてた仕事バリバリ進めるゾ~~~~~^^^(満面の笑みで泣きながら)
今週、どうにかこの時間まで乗りこえた。木曜金曜にスライド3つ(うち1つは外部の仕事)をつくるのはしんどかった(午後にもうひとつ授業はあるけど、それはだいたい準備が終わってる)
様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。