東京都美術館の「デ・キリコ展」を見てきた。
https://dechirico.exhibit.jp/
知らなかったが、キリコは彫刻作品を残してた。10点ほどのブロンズ像あり、いずれも高さ40センチほど、金メッキまたは銀メッキ。晩年に集中して作ったもので、「自身のヴィジョンを具体化したい、描かれた彫像を現実の彫像に変えたいという願望」と図録の解説にあり。
彫刻ならふつうは四方どこからも見ることができるが、「後悔するミノタウロス(The Repentant Minotaur)」と題した銀メッキの1点は、正面からだけ見るようにできていて、裏は何もない。全体の形状からいえば、壁にかけて眺めるものか。
妙に感じてのことだろう、裏にまわって確かめる人多し。
ミノタウロスは、クレタ島の王ミノスの妻パシパエが牡牛と通じて産んだ牛頭人身の怪物。ミノス王がダイダロスに命じて作った迷路に閉じ込められ、のちにアテナイの英雄テセウスに殺される。
ミノタウロスとパシパエに関する Wipedia 記事
https://ja.wikipedia.org/wiki/ミーノータウロス
https://ja.wikipedia.org/wiki/パーシパエー
人は誰も過去を作り出す。ただ思っただけにすぎないのに、その思ったことをもって、過去もそうであったと思い込む。
記憶とはそのようなもの。
寺山だけが過去を創作してしまうのではなく、誰もが過去を創作する。
《記憶なるものの凡てが想起という経験を擬似的に説明するための形而上的仮構なのである。当然その想起以外に記憶の証拠となるものはない。こうして虚構に導いたものは想起経験の中で経験される過去性である。つまり、過去として何かが経験される、という想起経験の本質が自然に過去という実在を想定させてしまうのである。》――大森荘蔵「言語的制作としての過去と夢」
過去の創作は、基本的には無意識的に行われるが、意図しても行われる。
寺山の場合、意図的な過去の創作は文章作法の一部。エッセイでも、論文的なものでも、論旨を支える要所に、創作された過去が置かれている。
《私が迷路に興味を持つようになった動機は、半人半牛の男が、螺旋状の中心でもの思いにふけっている一枚の画であった。
射手座生まれで、人馬宮に属する私にとって、この男(すなわちミノタウロス)の運命は、そのまま自分のことのように思われたのである。(……)何の科もなく半獣半人として生まれたばかりに殺されてしまうミノタウルスが気の毒でならなかったが、それは私自身の生まれ月(ホロスコープ)のせいと言うべきだろう。》――寺山修司『不思議図書館』
上半身が人間で下半身(性)が馬のケンタウロス。
上半身が牛で下半身(性)が人間のミノタウロス。
前後をあわせ読むと、寺山はケンタウロスとミノタウロスをいっしょくたにして、上半身が人間で下半身(性)が牛のミノタウロスをイメージしていたように見える。
記憶を創作する際の手抜かりといったところか。
#寺山修司 #ミノタウロス #迷路