壁抜け男のことは誰もおぼえてない。
地味なやつだったから。
まったく無名の人物だったが、名はデュチュール。無名でも、名前はあった。
捕らえどころのない幽霊みたいな存在。それゆえの壁抜け男。
ある晩、デュチュールが自分のアパートの玄関にたどりつく。
独身者用の小さなアパート。四階建て。
不意の停電。闇の中でしばらく手探りをつづけるデュチュール。
そして点灯。気がつくと自分は四階の踊り場にいる。
何が起きたのか。
玄関のドアには鍵がかかっていて、通り抜けられないはずなのに。
自分の発見。壁に妨げられないわたし。
鼻眼鏡をかけた登記庁の三級役人で、名はデュチュール。
わたしがこれからも無事でありますように。