プロダンサーの山田妙子は、駆け落ち先の大連で男にも仕事にも見切りをつけ、1938年初頭、上海に渡った。
虹の入り口というイメージの「虹口」は、期待はずれの街だった。「横浜橋」という小さな橋を渡りきると、目の前に掘っ立て小屋のような木造二階建てがあり、「Blue Bird」と看板がかかっていた。これが虹口で一番のダンスホールなのか。看板の文字が英語なのがせめてもの救いといったところだった。

古くから上海にいるダンサーが妙子に言ったこと。
あのね、「上海ってすごく素敵」とか言うけど、実際に素敵な租界で暮らした日本人なんて、ほんの僅か。
あたしも来る前はそう思ってたけど、じっさいは見ての通り、長崎からパスポートなしで来られるから、虹口なんて長崎の田舎みたいなもんよ。租界に行くには、とにかく西洋の言葉がひとつできないと。住むなんてとんでもない。

妙子の目に映った虹口は欧米人の闊歩する上海ではなかった。向上心の強い彼女は一流ナイトクラブでのソロダンサーを目指して、河向こう=租界の欧米人社会に挑んでいくことになる。

これも榎本泰子『上海』による。榎本のソースは山田妙子(和田妙子名義)自伝。

先の記事の続き。1938年(昭和13年)に東海林太郎の歌で発売された「上海の街角で」は、21世紀の今も「深情難捨」または「深情難忘」として歌い継がれている。ただし、日本でも上海でもなく、台湾で。
youtube.com/watch?v=MYaPRG_PZn

数年前になるが、アメリカで日本の80年代シティポップがはやっていると聞いたことがある。一般化して言えば、世界のあちこちのカルチャーの場には、時間を滞留させる遊水地か溜め池のようなものがあり、よそでは消えたトレンドがそこでは長くとどまっている――というのがあるのではないか。たとえば、シルクロードの彼方からやってきた文物が、日本で正倉院に残されていたり、雅楽として引き継がれているように。
YouTube で台湾版の日本歌謡をあさるのは心地よい。ド演歌に収斂してしまう前の昭和歌謡が、台湾の遊水地で保存されている。

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