新しいものを表示

「え、mixiログインしたの?してんの?まじ?wwww」みたいなノリにこれからTwitterがなるのか

Twitterの「通信途絶しました!」感がたまらん。良くも悪くも

近所の商店街にある洋品店。普段なら特に見るものもない。通りかかるだけ。しかし先日、入り口から見える奥に存在する一着と目が合ってしまう。革ジャン。見たことのないデザイン。おずおず店に入り、おばちゃん店主に話しかけると、あらいいじゃないが始まる。最近入荷してきたという。なんなのだこれは。断って写真を撮らせてもらう。ネットで調べると1930年代のデザインらしい。なにそれちょークール。そんなのを今も作って売っている人がいるのかと思うとそれも衝撃。お洋服のデザイナーがどーのという話ではなく、どこかにこれつーくろ、って思って作ってる人がいるわけでしょ。ブランドでもなし。それを町の洋品店で売っている衝撃。誰が買うんよ。あたしか。あたしなのか... どーしよう...

過去の自分の狭量さ、傲慢さに気付かされ、今まで気づけなかったことにも赤面するし、それでも今、正面から受け止められて安堵もするし、安堵することに情けなさも感じ、訂正しようのない過去の出来事、一場面を何度も何度も、不正確になぞる。遠い過去の話。今更正確に再生することはできない。でも骨子はわかっている。悪いのは自分だ。あの時自分にもっと余裕があったなら、そんなものはなかったのだ、その出来事を起こさずにすんだろうか。何度も考える。言い訳したいわけではないのだけど、自分では精一杯だったのだ。それが最良の選択と思ったのだ。でも今思えば間違っている。その時の自分に言い聞かせることもできる。こういう理由で間違っているって。でもきっと同じことをしたに違いない。そのぐらい傲慢だった。だからまたガッカリする。過去の自分に。情けない。今こうしてのうのうと生きている。申し訳ない。それでも生きていく。過去の自分を内包した今の自分を生きることにする。ただそうして前に進む。食べて寝て、生きていく。忘れずに生きていく。

身を焦がすような嫉妬をしたことがないと思う。あったのかもしれないけど思い出せない。最近、昔に購入した、そしてその後手放した希少な本、それも一から十まですべてその人だけで作っているという本、の作家さんを動画で知る。驚くほど若い。信じられないほど若い。あたしの昔の購入体験は偶然に小さなお店で見つけた本があまりに素晴らしく、それで繋がりの本を探しまくって数冊手に入れたこと。それら数冊の本はあまりにも堂に入っていて、恐るべき手練がとてつもない経験の果てに作ったに違いないと思い込んでいた。しかし事実は、情熱だけを武器にすべてをかけてたったひとりの若者がそのジャンルでは世界中に右に出る者がいない境地に立って、今もなお大好きな本を作り、コミュニティを作り、そこで新たな価値を生み、激しく揺さぶりをかけているという事実だった。
嫉妬しかない。
光り輝く存在だ。
眩しすぎる。
それに比べてどうだ。あたしは何をしていた。何をどう取り繕っても手遅れだ。追い抜けない。並べない。同じ空間に立つことさえ、羞恥心が邪魔をするに違いない。
あ〜、本当に素晴らしい人だ。こんな人がいるんだね。世界もちょっとはいい場所に思える。もっとどーにもならないダメ人間が作ってるってので良かったんだけどな。でも違うんだ。ほんとすごい。涙出るぐらい。

何かにつけしてくる自慢が、さして大したことがないのをどうしたものか。直球そう言ってよいわけもなく、その「どーでもいい」ことを支えとしたプライドの置き場は自分で見つけてきて欲しい。いいのだ。あたしにそのプレゼンテーションは必要ないんだぞ。と言えないのが辛い。どうにもならん!!

長い間見続けてきたvlog youtuberさんが涙ながらに「もう続けられない」と語る。そりゃそうだろうと思う。生活のすべてとは言わないまでもほとんどを映像コンテンツとして提供し続けることがまともとは思えない。やめていいよと誰かが、あたしが言っても本当に辞められるんだろうか。それもまた疑問

近所の神社に買い物がてらお参りに行く。割とよく行く雰囲気の良い小さな神社。すーっと入ってお賽銭入れて拝んでオツ!って感じのことをするだけ。その日は小柄な母親と娘三人が境内の端でずいぶん大きな声でやり取りをしていた。「もう帰るよ」「やだ!もっと遊ぶ!」「もう時間だから」「えー!」的なやり取りを姦しくしている。そーだよね帰りたくない時もあるよね。なんて思いつつも、説得するの大変なんだよな、と自分のことを振り返りつつ、拝んでオツをかました。オツした後に、ふと気がつくと、周囲が静か。境内の奥から出る道はない。そこには遊具が少しとベンチがあるだけ。さっきオツする前には四人がいた。でもオツしたらいない。そっか。時間だったか。そこにいた「人」たちが見た目どおりとは限らない。それも目の端で捉えただけで、どんな格好していたかも定かじゃないのだ。そこは神社。神の社。ふーん。邪魔したんじゃないといいけれど。オツ!

軽々しく「答」に飛びつき、目覚めたと宣うことの浅ましさよ。否定するのはいいだろう。許さないことも大事だ。嘆くのもまた必要かもしれない。けれど、それでも、わかったと断言するのだけは間違ってるんじゃないか。わかりはしない。だから悩むんだし、悩み続ける。それが答えだと決めるのもまた間違っているんだ。答えがどこにあるのか探し続けることだけが、皆等しくできることなんじゃないだろうかと今、僕は

陰謀論のドグマに飲み込まれていた人が、そのいわゆる洗脳から解けたのかもしれないきっかけの瞬間を観測した。そのまま少しづつでも脱してほしい。おもしろい人なんだよ。帰ってこい!

帰宅途中、近所の、ってほどでもないのだけど、神社での神事を見る。そこはネットにも出ていないような小さな神社なのだけど、近所のおじさんたちと思しき方々が地元の子供たちを前にお面をつけた舞を見せていた。子供達も興味を持って見ているふう。ある種、異世界の雰囲気を感じさせる夕刻。通り過ぎざまにお賽銭箱に小銭をいれ大幣を振ってもらう。家族の無病息災を。まったく予定にない、ほんの数分の出来事なのだけど、なんとなく運が良かったなと感じられる時間。それを背に、いそげ夕飯。

誰でも彼でもキャラクター化してわかりやすければいいって雰囲気にうんざりする

権力が押し付ける秩序を無批判に受け入れなければならないと思う心情はどこにあるのか。受け入れたいという感情そのものは理解できるにせよ、受け入れない他者を無根拠に攻撃する。そこがわからない。権力機構が持つ強制力を何らかの方法で変えたい、抑制したいという欲求は、わりと当然のことと自分なんかは思う。そうじゃない人がいるのもわかるのだけれど。

古いものを表示
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。