『マッドマックス:フュリオサ』
監督/ジョージ・ミラー
脚本/ジョージ・ミラー、ニコ・ラサウリス
#映画 #感想
故郷から連れ去られ、母を殺された少女フュリオサは、荒くれ者の集うバイカー集団を束ねるディメンタスの養子として荒れ果てた地で生き延びる。要塞シタデルでイモータン・ジョーの子産み女となった彼女は、やがて髪を剃り男装してメカニックの技術を学び大隊長となって再び故郷を目指す。瞳に怒りの炎を宿しながら。
宣伝文句の仰々しさが白々しく思えるほどに、静かな怒りに満ち満ちた映画。改造バイクや馬鹿でかいタンクローリーといったいかれたメカニックは山盛り登場する一方、全作みたいな熱狂はまったくない。あれはなんだったんだろうなあ、イモータン・ジョーって前作も今作もすげーヤなやつなのに。
今作のヴィランとして登場するディメンタスは、イモータン・ジョーに比べると凄く小悪党だ。部下にも裏切られるし治世も下手。そのくせ、恐ろしい男ぶろうとヒゲを赤く染めてマントを羽織る姿は痛々しさすらある。二つ名を自分で名乗りはじめたときが最高にイタかった。
あのイタさには見覚えがある。給湯室や女子だけの飲み会で交わされる、職場の○○さんについてのトーク。男性がなにかを守ろうとして強い男を演じている姿はたいていバレている。
続)
『マッドマックス:フュリオサ』感想続き
映画のあとに公式Webサイト掲載の絶賛の声をもう一度観てみると、こんな映画だったかな?と思う。
https://wwws.warnerbros.co.jp/madmaxfuriosa/news/news_240528_2.html
少なくとも「ぶちあがる」ような映画ではなかった。何度も観に行きたくなるような熱狂はない。ぶちあがるには生々しすぎる。マッドな世界なのに、給湯室のあのイタさは生き延びているのだから。
怒りのデスロードが神話に例えられたように、フュリオサもかなり神話を意識されている。ディメンタスの乗り回すバイク二台立ての戦車(この奇天烈な乗り物がCGじゃなくちゃんと動いててすごかった)や赤いマントはトロイア戦争のアキレウスのようだった。
それで私が思い出したのは、パット・バーカー著『女たちの沈黙』だ。戦で闘い血を流し、指導者に忠誠を誓い、同性間で友情を築くのは、ギリシア神話の時代からずっと男性だけだった。この小説では男たちの物語の裏側でモノとして扱われ、神話の中からことばと存在を抹消された女性達に焦点があてられる。
『フュリオサ』もそういう映画だったとおもう。故郷を連れされられたあとのフュリオサはことばをほとんど発しない。ただ静かにじっと見つめているだけ。神話に似ているとしたら、それは『女たちの沈黙』に似ているからだとおもう。