『ウーマン・トーキング 私たちの選択』(2023)
監督/サラ・ポーリー
#映画 #感想
閉鎖的な村で発覚した集団強姦事件。村中の男たちが不在となる2日間に、残された女性たちは投票をおこなった。ほぼ同数の得票となったのが「闘う」あるいは「去る」――どちらを選ぶか、代表者が話し合うことになる。
現代(2010年)が舞台だけどまるで時間が止まってしまったような村には「メノナイト」というキリスト教の宗派の人々が暮らしていて、ガスや電気を使わない生活をしている。聖書の教えは知っていても人権の概念はない。男性と女性が平等である『べき』だという前提すらもない。それでも、自分たちがこんな扱いをうけていいはずはない、という静かな怒りと悲しみが漂う。まだ4歳の子が「痛いの」と涙を流す。
こんなことが起きていいはずがない。
村の女性たちは教育の機会を奪われており、読み書きもできず地図を見たこともないけれど、「同じ体験」を共有している。血に濡れて目覚める朝のイメージだ。それでも意見や態度はまったく異なるし、受けた傷の形も現れ方も、何もかもが違っている。フェミニズムにまつわる有名なことば『一人一派』のように。
続く→
『ウーマン・トーキング』続き
続→
話し合いのあいだ村に残る男性は、大卒の教師(読み書きができるので書記係として)と、強姦の被害に遭いことばを閉ざし、男性の格好をして暮らすようになった青年(トランスジェンダーだと示唆される)の2名だけ。教育を受けた男性と、男性からの暴力をうけた男性は、決して女だけの会話を邪魔しない。まるで民主的社会の思考実験をするかのような映画だった。お菓子やお茶といっしょに、ときに笑い声が響く様子はセラピーのようにもみえる。
共同体にとどまり闘うこと。危険から離れて身を潜めること。どちらも、暴力を厭い、自らの身の安全とこどもたちの健やかな成長を願ってとられる措置だ。どちらを選んでも正しいし両方ともとても困難だ。きっとできっこない、無理にきまってる、映画の中でも女性たち自身によって何度も唱えられる。
それでも彼女たちは決断をくだす。そうしなければ生きていけないから。
女性たちの話し合いは、ある登場人物の子孫により『過去』の出来事として語られる。できっこないとおもわれた望みは叶えられた。
でもきっと、そこはまだ旅の途中だ。
闇の中、おずおずと拳があげられる。誰かを殴るためではなく、星をさがして居場所を知り、方角を得るためだ。場所や時代がちがっても、その拳は同じ場所を目指している。