書店で偶然手に取ったBL漫画にハマった75歳のおばあちゃんが、書店員の17歳と仲良くなる話。「良い」とは聞いていたけれどとてもよかった本当に良かった、何年かに1本現れる繰り返し観たい邦画だった…。
「BL」が好きな主人公は、自分が好きな物を人前で「好き」と言うことができない。好き、を人前に出すのは怖い。拒否されるのも、変にチヤホヤされるのも、嫌だ。自分の好きをどうやって大事にしたらいいかも分からないのに、17歳には「進路」という難題が付きつけられる。何をすればいいか、どこへ行けばいいのか、自分に何ができるのか。進路を決めろ、目標を言えと言われても、自分には何もないと感じる気持ち、痛いほどに良く分かる。
一方75歳の行く末はある程度決まっている。人生の終焉が目前にあるからだ。腰は痛むし物も忘れる。でも、書店での偶然の出会いによって、大冒険が始まることだってある。自分の形が分からず、まだ何者でもない17歳と、自分の核も殻も形も持っている75歳が、それぞれほんの少しだけ「メタモルフォーゼ」する。
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「メタモルフォーゼの縁側」続き①
あと、良い意味で「ひっかかり」のない映画だった。「BL」は《女性が男性同士の性愛的な交流を愛でる》コンテンツであり、男性の性欲には寛容だが女性が性欲を持つことを認めない日本ではしばしば逆風に晒されてきた(自らを揶揄して「腐女子」って単語も使われてきた)
一歩間違えばくだらない自虐ギャグになりそうなのに、この映画は「BL」を貶めることなくうまく取り扱っていたとおもう。
映画で一番「いいな」と思ったのが、「商業作家」も「同人作家」もおなじ『作家』として扱っていた点。主人公がやっていたのが二次創作かオリジナルかはボカされていたのだけれども、技量が違おうと、動機が何であろうと、それは等しく苦しみであり喜びなんだってことを描いてくれていた。二次創作やっている身には沁みた…。
「君の側にいるから僕は自分の形が分かる」「君がいるから頑張れる」というメッセージを、17歳と75歳・幼馴染の私と君・作者と読者…という何層ものバリエーションで、どれにも等しく優しいまなざしで映し出していた。この映画は、何かを目指して走ることも、とりあえず次の目的地に走ることも、どちらも肯定する。
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「メタモルフォーゼの縁側」続き③(イチャモン寄り)
おばあちゃんの造形はあのパターンしかないのかい?という気はする。都内の古い庭付き日本家屋、夫に先立たれてて、娘との関係も良好、ご近所さんとも仲良し、いろんな伝手があり、手に職と教養がある。あれが世に求められるおばあちゃん造なんだろうなあとは思った。これは映画というか原作だろうし、『海が走るエンドロール』とか他の少女漫画にも同じ指摘ができそうだから、この映画へのイチャモンではないんだけど。