今ブーストしたような論調、こういう考え方になじみがない人からすると極論に聞こえてしまうだろうなと思う。これを極論だと思う人たちは、おそらくはaffirmative actionに対しても否定的な考え方をするのではないかという気がする。
障害の社会モデルの考え方がもっと広まると良いのだろうという気がするけど、なかなか難しいよなあとも思う。
自己責任論が大好きな人たちに言わせれば、障害者は自業自得くらいに思ってるだろうし、社会の有り様に問題があるというのは受け入れられないだろうと思う。
でもそこを変えていかないと世の中は良くならないし、少なくとも僕の暮らしは楽にならない。

なんとなく……特に日本だとこの「極論に聞こえてしまう」層が多いのではないかなって、昨日A11y Tokyo Meetupでアメリカの事例を聞きながら感じました。日本なんて、世界から見たらこの国であるだけでマイノリティなのに、井の中の蛙感が多いなぁと(おそらくそこに埋もれているので、私もそうなのだろうと自戒も込め)。
インクルーシブデザインをすること、あるいはアクセシブルな製品を作ること自体ではなく、その仕組みを使う世界自体がよくなっていくことの方に着目しないと駄目だな、ってより思いました。

アクセシビリティーとかインクルーシブデザインとかそのものが目的になってしまっている人が多いんじゃないかと最近よく感じます。アクセシビリティーとかって、あくまでもより良い社会を実現するための手段に過ぎないはずなのに、そこを忘れて特定の仕様に準拠することだけを目指すような人が一定数いて、形としてはアクセシビリティー高いけど、それと使いやすさとか使えるかどうかとかはまた別、みたいになってしまいかねない状況があるような……。
社会が変わって不便を感じる人が少なくなるべきだという考えに基づけば、その手段として取り組むのがもっと当たり前のことになると思うんですが、変わるべきは当事者の側みたいなのが根付いてるこの社会においては、それはそう簡単な話ではないなと、暗い気持ちになることがあります。

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まあ目的としてアクセシビリティーを定着させようとしてきたというところに関しては、数年くらい前までの僕にも少なからず責任はあると思うのですが……。

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