人間は自分の役割に応じて、人格も変わってくる。研究もされているし、映画にもなった話がある。囚人役と看守役の2つに役割を分けて、模擬的な実験したところ、最初は冗談でやっていたことが、次第に当然になってゆく。その積み重ねが、最終的に自分の人格として定着してしまう。その役割に応じた人格になってゆく。
どのような役割を創り出すか、そして、その存在を許容するか、は大切なことなのに、結構、いい加減だったりする。その積み重ねが社会のあり方だったりする。そう考えると、現在の社会は、なるべくしてなった醜態の塊のように感じる。現実社会しかり。ネット社会しかり。
私は、もともと厭世的な人間だと思う。他人の醜態や無礼さに対して、あまり寛容ではない。社会の腐敗など、受けいられようハズがない。最近、ようやく、それらに対して無関心でいることを覚え始めている。関心をもつ価値がない人種もいる、と考えている。
世界中の都市の散歩動画が見られる。なかなか面白い。
昨夜の "Shoganai" を笑いはしたものの、真理を突いているなと思った。雑念で眠れなかったが「しょうがない」を連呼することで、気づいたら眠りに就いていた。
動画になっているので、何か意味があるのかと思ったら、静止画による説明で十分というのが多い。読み上げた音声より、文字を書いてくれた方が、脳の処理も速い。改めて、動画にする意味が分からなくなっている。
「考えすぎ」を止める日本人の技術として最初に挙げられていたのが "Shoganai" というのに笑った。
実際のところ、好き嫌いに、あまり論理的な理由はない。いちいち突き詰めて考えなくても、嫌なモノは嫌、好きなモノは好き、でいいんじゃないかと思う。
雑感を投稿しています。