Misskey.ioというパーティー(むずかしいはなし)
結局論争の本体が見えてこないので細かいことはよく追えていませんが、Misskey.ioが「ゲイ」という語をフィルタしていた件で、それに対する運営の対応がどうなのということで炎上していました。
その初期対応が差別なのかといえば、まあまごうことなく差別にあたるのですが、個人的にはむしろ、たまたま今回差別案件が発火点になっただけで、補助線はもっと別のところに引けるんじゃないかと思っています。
これは方々で発言されているので事実だと思うのですが、Misskeyというソフトウェアは「楽しいSNS」となることを目指して開発されていて、Misskey.ioは実質的な旗艦サーバーとしてその機能をフルに展開し、なおかつ非法人(?)としては稀にみる労力と資本を投下して、その理想を実現すべく運営と管理が行われ、事実それはかなりの程度、目的を達しているようにみえます。
で、本題は、その管理方針が完璧か欠陥があるか、いや完璧じゃなくても頑張ってるんだから文句を言うな、などという話でもなく、そもそも「楽しいSNS」を達成するというのはどういうことかについてです。
Misskey.ioを開くと、旺盛な創作意欲や奇想天外なネタ、果てはくだらない投稿でさえも盛り上げるリアクションの数々が押し寄せてきます。この一種強烈なアゲのバイブスは、きめ細かいモデレーションとユーザーたちの積極的な協働に裏打ちされているのは間違いありません。
それは自然な楽しさなのでしょうか?もちろん、サーバー上を流れる圧倒的な創造性の発露をみればわかる通り、そこには無限の自発的な自由さに満ちみちています。それを奨励する雰囲気を醸成する一方、楽しさを阻害する要素も陰に陽に抑制されています。前に、Misskey(.ioに限らず)で申し訳なさそうに「ここで言うことじゃないけど」と、病みノートをつぶやいている人を何人か見たことがあります。それも人間のよくある感情のはずです。ですがそうした「潜在的に人を不快にする要素」について、モデレーション上もメッセージ上も、予防的に排除しようという雰囲気を感じられます。そう考えると、.ioというのはかなり「縛りの多い」場所、ある意味「気を使う」場所とも言えます。しかしそんなことはない、全く制約のない世界のように感じている参加者は多いと思います。それはどういうことなのでしょうか。
実のところFediverseは新参者なので、昨年前半以前の状態は詳しく知らないのですが、Misskey.ioが作ろうとしているのは、永遠に終わらないパーティー会場のようなものに思えます。いつ行っても楽しくて、できることなら帰りたくない、それでもいつか帰る時間がやってきて、そしてまたすぐに戻ってくる、そんな場所です。そこは楽しさが得られる場所なだけではなく、実は楽しさが暗黙のドレスコードでもあります。「Misskeyに来てまでわざわざ言う必要はない」が定義できるのは、外の世界にいくらでもあるというからという前提に立っています。たとえそこがどんなに嫌でつらい、できればなくてもいい場所であっても、否が応でも存在する以上「楽しくないもの」を捨てることができる、その外部性に依存しているのです。
そうすることで、Misskey.ioは「いい人だけの国」となっています。その優しい世界で、みんなが協力してどこよりも煌々と輝く壮大なキャンプファイアーを作り上げる、貢献主義的で素朴なユートピアです。しかしそれはちょうど努力が誰にでもできるわけではない才能であるように、救われる人と救われない人をはっきりと切り分ける「強い思想」でもあり、汎用的な最後の人格の拠り所とはなりえない宿命を孕んでいるように思えます。
なので、「ただ自分でいるための場所」を求めている人にとって、そもそもそのような環境は構造的に最適ではないのかもしれません。Misskey.ioが一つの居場所のあり方を提示しているのと同じように、そこからこぼれ落ちるめんどくさい奴ら、おもんない奴ら、昇華できない思いを抱えた奴ら、進捗はないのに深夜に怪文書を書いている奴らにも、相応の祝福が与えられるといいなと思っています。
丼はもうちょっと趣味・クラスタ別に鯖を立てて分化していく動きが起こってもいいと思うが、そもそも鯖を立てることのハードルが高いのでは(知らんけど)
通称「猫耳」。レールバスから除雪車まで。ミニコミ誌『鉄道評論』の青蝶舎主宰。