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200号とかの大作を描いて美術館に展示する意味についてずっと考えている。


私、大きな作品を遠くから眺めたり近づいたりして長い時間いろんな角度や距離から見るのが好きなんですけど、よっぽどな金持ちでもない限り掛ける場所もないし、金持ちの家にお呼ばれすることもないし、万が一お呼ばれすることがあったとしても、ホストほったらかしてじっくり見入るのは気が引けるだろうと想像するので(想像するだけですがw)、美術館はありがたい存在です。

それは確かにありますね。

実は 絵画の大作主義は割と近代以降なんですよ。それまで大きな作品は壁に直接描くか、大きな布や紙のようなものに描いてあり、そういうタイプなら巻いて運べましたし。多分そのうち 歴史は戻っていくと思うんですよね。例えば、3 D コピー機が順調に普及し 再現の質も上がっていけば、実際に大きな作品を作る意味は飛躍的に薄れるとかあり得ると。


そうなんですね。描く側の視点とは違うかもですが、私はレンブラントの夜警の実物を見たときの、大きな絵を間近で見ることでしか得ることのできないあの圧倒されるような感覚がすごく印象に残っていて、それまで教科書とか写真集で見ていたのと同じ絵なのだけれど、実物にはやっぱり全く別の何かがあると思うようになり、絵は、見るものというよりも、体験するものなのかもと考えるようになりました。

なんでも大きければ良いってものではないと思いますが、精緻に3Dプリントで再現できるようになれば、運ぶのが難しいような大きな絵も近くの美術館で現物と同じサイズで見ることができるようになるかもしれませんね。

レンブラントなどはほぼ 注文を受けて描いていたので、その後の保存についても決まっていたんです。しかも、あれほどの傑作ですから、 永遠に保存する価値があります。
しかし、 現代ではアーティストが勝手に制作するので、シビアな言い方をすると大量の無駄が出るわけです。現在の大作のなかには、存在感や迫力を出すために大きさのインパクトに頼っているものがあり、必ずしもそのサイズが必要でない場合が結構あるので。
だから、見直す時期に来ているなあとつくづく思うんですよね。


なるほど、大きさだけで圧倒しようとする傾向があるのですね。そういうことを美術館/キュレーター側が見抜けなかったり、商業的な指針に囚われすぎて敢えて展示しているのだとしたら、確かに質より量のサイズ至上主義みたいな面が問題になるのはわかります。

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