おっと、押す気のなかったトートをうっかり手が触れてブーストしてたことに今気づいたな。ワンクリックでブーストは便利だと感じてたけど、やっぱり一度確認する設定に直しておいた方がよさそうだ。あとマストドンは一度トートしたら消えるのは自分の手元だけなんだよね。
それも「発信する責任」の意識につながるからいいことだと思うが、うっかり者としては諸々気をつけねば……。
記者会見に参加しました。結構本気で民主主義の危機だと思っています。
というのも、学術会議法を第三者による会員推薦や政府による任命拒否が可能になる方向で変えてしまう提案が今、なされているわけですが、これが通ってしまうと憲法23条「学問の自由」が主観法および客観法としてフルに効いていた組織がなくなるからです。
無論、それで人々が日常の不便を感じるレベルにはすぐにはならないでしょう。しかし、自民党のみの提案を入れた今の方針の提案が通ってしまったら、民主主義が損なわれないようにするための安全装置は確実に一つ消えます。
https://mainichi.jp/articles/20221227/k00/00m/040/311000c
前にも書きましたが、日本学術会議は、WWII以後、「滝川事件」、「天皇機関説事件」などの、学問に対する弾圧の反省として、憲法に「言論の自由」とは独立して、わざわざ23条で「学問の自由」を明記し、その「学問の自由」を制度的に保証するものとしてつくられたものです。
ところが安保法制の際の「報復」=「みせしめ」として、「任命拒否」問題が起こり、岸田政権になっても、この「政治的」報復を撤回するどころか、学術会議の構成そのものに政府が介入できる「法改正」を表明。
これは、直接的には、大学を軍事開発に動員する、という目的がある。
以前にも書いたが、学術会議全体としては、今のところ「軍事開発」に協力することは「望ましくない」という立場。
しかし、工学系を中心に、「デュアル・ユース」の名の下に軍事開発に関与して巨額の研究費を獲得したい部分もすでに存在している。
来るべき法改正は、学術会議が軍事研究への協力への「障害」とならないよう、「介入」できるように設定するつもりだろう。
しかし、同時に、憲法23条に基づいた「学問の自由」は骨抜きにされることになる。
従って、学術会議問題は、たんに研究者に関わるだけでなく、日本国憲法体制への全面的な攻撃の重要な一環をなしている。。
Twitter的な逆張り&感情を逆撫でする炎上ビジネスをいちおう学者を名乗る奴らが始めちゃった。古市や三浦瑠璃やら。それを自民党やメディアが利用して、分断と憎悪を撒き散らす。権力やカネと癒着してるので止める方法がない。トランプにしろ、イーロン・マスクにしろ、今どきはみんなこうやって大衆を操ろうとする。その邪悪さにどうやったら対峙できるのか?
古市憲寿氏、豪雪地帯での大雪被害に「大雪が降るような地帯にいつまで住むのかをある種、突きつけられている」
https://news.yahoo.co.jp/articles/5a731d1997890713591fe5ee5dbc2ac5c2f315c5
むかし飲み会で「従軍慰安婦は捏造」って熱弁するネトウヨに反論してたら「まあまあ、実際その場にいたわけじゃない俺らには何がほんまか分からんよな」って仲裁しにきた人いたの、事あるごとに思い出すんよね。
あんた織田信長のことも豊臣秀吉のことも「実際見てないから実在したかどうか分からん」つってんの?違うやろ。
デマと反論をどっちもどっち扱いして「仲裁」しに来るの、「いじめられる側にも問題がある」理論でしかなくて最低やけど、この人は周りに「バランスの取れた良識ある人」扱いされてたし、自分でもそのつもりやからしたり顔で「仲裁」しに来ていいことしたつもりでおるんよな。私的にはネトウヨの人以上に思い出しムカつき度高いんやけど。
公共空間に於ける性的表現について既婚のオタク男性による意見書。そうなんだよ、そうなんだよ!!と膝の皿が割れるほど膝を打った記事。
「音楽なんてそれでいいんだ。日常にふと流れてきて、"いいな"とか"楽しいな"とか、そんな気持ちを聴く人に起こして、それで消えていくもの。人生を変えたり勇気を与えたり、そんな力は持っていない。日常の中にある、流れてくる、耳を傾けたり傾けなかったり、そこにいる人たちが時に応じて自分の気持ちを乗せたり乗せなかったり、ただそれだけのもの。感動を与えようなんて送り手が考えたら死ぬもの。人の心を操りたいの?そんな傲慢な話はないよ」師匠はそんな話をする。
だから師匠の演奏会は少し変わっている。外の音を遮断しない。通り過ぎる車の音、遊んでいる子どもたちの声、遠くで犬が吠える声、そんな日常の音が演奏会の途中にも入り込んでくる。「だって音楽ってそういうものでしょ。日常の中で聞こえてくるでしょ。他の音を全て遮断して全き静寂の中で音楽だけが聞こえるなんてことある?そんな非日常な場所をわざわざこしらえて聞こうなんて俺には理解できないよ」だから時にはお茶やケーキが出て、食器がカチャカチャ音を立てる中でパガニーニやソルやブローウェルなんかが流れてくる。いい時間だ。
クラシックギターの師匠が言うんだ。「たかが音楽でしょ」って。彼はその人生のほぼ全てを音楽に費やし、音楽での表現を追求し続けてきた人。もうほぼ埋もれかけている中世期からこっちのギター曲を掘り起こし、現代に再現することもライフワークとしている。寝ても覚めても音楽を追求し研究し研鑽を怠らない日々を数十年に渡って続けている人。
その師匠の口癖が「たかが音楽でしょ」だ。「音楽には人を救う力なんてないよ。感動を与える力も勇気を与える力もない。生まれた瞬間に消える。存在する時間なんてほぼゼロなんだ。聞いた瞬間に過去になっていくものだ」って。「だから音楽で人を救おうだの感動を与えようだの、大仰なことを考えるんじゃない。音楽にそんな責任を背負わせるなんてそんなつまらないことはないじゃない」って。「音楽はね、そこに"在る"、それだけのもの。それを聞いて勇気が出た、力づけられと言う人もいるのは確かだ。でも、それは受け手の心が音楽をきっかけに少し変化をした、というくらいのこと。元々あったもの、存在しているその人は何も変わらない。ほんのちょっとしたきっかけ、それくらいにしかなり得ないのが音楽だよ」と。
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