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久々に話す大学院の人たちと喋ったが、やっぱり話が合うというのはよいことだなあという気持ちになった たまたまジャズが好きな人が集まると楽しいね

ムーンライダーズ聴いてじーんとしちゃう自分、大変恥ずかしいような気持ちもあるけど、実際じーんと来るんだもんねえ

居候のブログ、いよいよいい感じに仕上がってきたのでみなさん読んでやってほしい
wagaizumo.hatenablog.com/entry

とりあえずiPhoneのTwitterのアプリ消しちゃった

あーマストドンの方がやっぱ全然楽だなあ(こっちのユニークな機能にフィットしているとかいうわけではなく、タイムラインにノイズが少なく、見てる人もほぼ居ないので好き勝手に雑なブログを書くような気持ちで好きなことを言えるというだけの話)。もう友達との交流(?)用と好きなことを喋りタイムラインしっかり追う用みたいなことで用途を二分した方がいいのかもしれん

俺、日記を書いたほうがいいような気がする。続かないような気はするが、文章の訓練と思って書くか。

俺をちゃんと怒ってくれ、という欲望がずっとあるような気が自分ではするんだけど、これが多分かなり根本的な欲望である気はする

いやーどんどんめんどくさくて愛嬌のない変なおじさんになっていく気がする。めんどくさくて愛嬌のない変なおじさん、日本で生きていく場所あるのか……?

世とか生について日々もやもやと考えることがあるが、俺の表現を汲み取って整理してくれるくらいにお互いぼんやりとした尊敬があって、なおかつ基本的なバックグラウンドが似てて話が合う、さらに俺の好き勝手に付き合ってくれる人は数人もいない (当たり前だ)。親友というのはとても大事

人と競り合うことが絶望的に不得手な人間が、各々がその人なりの美学を大事に発展させて過ごしてゆくことがありうべき生の形だろうと考えるようになるのは、みっともないくらい当たり前の防衛機制の発動の結果とも思わなくもないが、まあこんな時代なわけだし、そういう人がのらりくらり生きていてもよかろう

人と競り合うということに付随する、それをなんとかやり抜く気持ちの強さも、勝つためにはなんでもやるという面の皮の厚さも、適度に自分を騙せる都合の良さも、なんならそういった能力が自分に不足していることを悔やむ力も全てが弱いまま、なぜかだらだら生きてしまったな。どれももう絶対に内面化できないから、変な自省はやめて俺は何がしたくてそのためには何をやるべきかをよく考えないと、これからも動けないんだろうな

人と競り合うということが20うん年生きて未だにめちゃくちゃ苦手なまんまなの自分でも酷すぎて笑ってしまうけど、まあもうここまで来ればたぶん一生苦手なのだし、無理にそのレースの中でどうやって生きていくかということであれこれ悩む必要もないのかな、というのが最近の気持ち。苦手なりにどうレースの中で欲望を宥めてかご機嫌に生きるかを考えなくちゃね

菊地成孔のラジオをしつこく聴き続けているけど、流石に頷けない部分もありつつ、でも流石にずっとラジオ聴いたり音楽聴いたり本読んだりしてるから菊地イデオロギーみたいなのが身体に染み込んでる感じはする

Twitterマジでうんざりだしそれでも俺含め誰もTwitter触らないようにならないのがさらにうんざり

数日ぼんやり考えていたが、要するにいろんな美学があった方が嬉しいし、おれはその美学を大事にするし、それが色々に発展する可能性を狭めることは良くないなということだ

実際にはジャズだってクラシックだって、アスリーテスの力学によって駆動してきた音楽だったはずだけど、その運動はカルチャーとかアートという制度に取り込まれて、見えてないことにされていたのでは。だし、そうした状況が作り出す権威のタワーはポップスの野生の力がいつも陳腐化させてきた。でも有無を言わせぬアスリートの権威がものを言いはじめたとき、今までのアートの虚構が一旦脱神秘化されるかもしれないことはとりあえず喜ばしいことかもしれないんだけど、でもそれから先どうなってしまうんだろう

これは俺がスポーツ見るのもやるのもそんな好きではないってところと繋がってるような気はするんだけど、あらゆる趣味が完全にスポーツになっちゃうなら息苦しいよね

だから、これはあくまで俺の個人的な自意識の問題かもしれないんだけど、スポーツ的なスキルバトルの果てに生み出されたものを趣味がいいねえと褒めるのもなんだか間抜けだし、多分にカッコつけでやってるとこはあるでしょというものをアスリートがすげー!っつって感心してるのもまた、間抜けに思えてしまう。趣味なんて見栄の張り合いはくだらないんだけど、だからと言って全てがアスリートの競争になっちゃうのもそれはそれでどうなんだろう

別にこの音楽がどう作られてようが知らない、ただ僕ら私らは歌詞とサウンドになんとなく浸って気持ち良くなりたいだけなんだ、という幸福な観客は過去のメディア環境が作り出したものでもあると思う。ライブ映像が簡単に見られて、制作のハードルがめちゃくちゃ下がって、外で遊びまわる時間がなくなって、そういう状況の中で新しい熱心な観客はポップスに対するリテラシーと素朴な権威主義をゆるやかにインストールしていっているように見える。俺にとっての権威主義は、趣味の問題とつながったほんとにくだらないものだったと思うんだけど、彼らにとっての権威主義はもっと、部活の先輩を敬うくらいの毒っけのないものに見えるときがある。
ポップスを聴くということが遊びかアートかみたいな、そういう趣味の次元から、どんどんスポーツ観戦みたいなニュアンスを増していっているように個人的には思える。それはある意味一つのアートフォームにおけるコミュニケーションの成熟の過程として当たり前っちゃ当たり前のことかもしれないんだけど、ポップスというマスコミュニケーションの中でそういう流れがより強くなっていくのだとしたらとんでもなく変なことだと思うし、面白いと思うし、ただ同時にぼんやりとした予期不安も感じる。

ポップスって確かに人を圧倒するものだっただろうか、とも思うけど、でも圧倒して何が悪いんだろうとも思う

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