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今日は聴覚過敏が特に辛い。英語の発音練習アプリをしていて、自分の声のうるささに強いストレスを感じてしまう。

タイトルロールなんか第一話で死なせて、あとは一年ずっと草の根と土だけ映してればいい。ずっと教育的だよ。

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大河ドラマの主要登場人物に、最大多数の最大幸福を本気で考えてゲロ吐きながら算盤と人間関係を調整するみたいな英雄が出てこないのもうんざり。税金使ってスポーツ大会ノリで戦争やって、死ぬのは税金を収めてる顔も出番も死体もない雑兵で、それらを顧みずに上流階級だけで家族ドラマをして「人間でござい」みたいなの、もうほんと糞。

日本人の作る動物番組は、動物の生態を伝統的家族観でテクスト化したり味付けしたりばかりで嫌になる。擬人化ですらなく、戯「日本人」化だ。うんざり。

小謂雨りよ さんがブースト

クィアによる生存と抵抗の為のデモやります。よければシェアお願いします。
twitter.com/niigata_pride/stat

濃尾平野は台風みたいな風で吹雪いてる。お隣さんの物置が倒れる音がした。

いい作品を書いてれば一生経済的に自立できる環境があるならそんなの必要ないけど、そうじゃないもの。

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芥川賞・直木賞の主催側は候補者全員に授賞式用の衣装を作らせておくべきだなって思う。代金とスタイリストもつけて。

着飾った若者の服の生地がGU的ではなかったので、もはやそれだけで眼福でございます。

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こざっぱりと着飾った若者や、その付き添いでシックに纏まった格好の中年女性を多く見かけ「統計や世相と裏腹、世の生活水準は上がっているのか?」と思ったら、振り袖がぽつんと目に入って、成人式、となりました。

他人との雑談も急ブレーキと急カーブの多い車に乗せられているように感じる。

見通しの利かない初めての住宅地を整備の悪い中古車で猛スピードで突っ切り、急停止と急カーブを繰り返し、物に衝突したり人を跳ねたりしても放ったまま。そんなものはただの苦痛なのに、楽しめ楽しめと言われる。わたしにとって雑談はそういうものだ。

穏やかで心地よい、ダンスのような雑談も稀にあるけれど、ほんとうに例外。

去年はジェンダやーセクシュアリティの揺らぎも多く、またそれに耳を傾けることのできた一年でもあった。そういったことは都会に暮らしているときの方が環境的に容易そうなのに、どんな文化もショッピングモールへ集約されるか消えるかみたいな土地に引きこもっているこの期間に起こったのは、きっとTwitterのおかげなんだろう。
この先、あのプラットフォームはどうなるんだろう。

お正月ストレスで偏頭痛。変則的なスケジュールがいたる所で執り行われていて、それに遭遇する度に脳内で急停止したりハンドルを切ったりで、慣性で脳がぐにゃっとなる。これは比喩ではなく本当にそう感じる。

40半ばにして自分がASDだという認識を深めて来ていて、今年は心療内科を受診するのだと思う。そういう社会のようだから。

障害モデルではなく社会モデルで、定型発達を自然化した社会を実験場のように眺めながら、どうにかやっていこう。

いいな、と思ったミュージシャンの最近のライブを聴いてみたら、セットリストが10年前とほぼ変わってなくて、商業的な規模も維持してるけど、箱の音があんまりよくない、みたいなのなんか辛い。

ダンベルスクワット、自重ブルガリアンスクワット、ダンベルを乗せたヒップリフトでハムストリングスをパンパンにしたら、数日続いてた鬱々が吹っ飛んだ。尻に溜まってたのか。

ドライヤーをかけると前髪が生ゴミみたいになるの、なんでなんだろう。

引用続き 

承前)しかしそれでも私たちは、認識や権力や欲望の異なる体制のもとで、他のどのようなセクシュアリティにも入っていくことができたはずなのだ。私たちは、多少の疎外感や距離感をもちながらも、自由、喜び、充足を感じながら、他のどんな性の言語をも学ぶことができる。別のセクシュアリティ、欲望と快楽の別の生産体制を学び、発明することは可能である。この宣言は、セクシュアリティを言語と美学として考え、性の形式主義、再生産の機能主義、二元的な物の見方の規則などを乗り越えるよう呼びかける。カウンターセクシュアリティとは、私たち自身のセクシュアリティの異邦人となり、私たち自身の性のモノリンガル状態を脱自然化し、性的な翻訳作業のなかで自分自身を失い、自分自身を発明しようとする試みなのである。”

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『カウンターセックス宣言』より引用 

ポール・B. プレシアド『カウンターセックス宣言』
pp.28-29

“この宣言は、セクシュアリティを精査や性同一性に還元することはできないと主張する。ここではセクシュアリティとは、身体の政治、身振りの美学、関係の倫理として定義される。セクシュアリティは言語のようなものだ。コミュニケーション、発明、生命の再生産などから織りなされる複雑なシステムである。言語と同じように、セクシュアリティも、特定の系譜や生文化の刻印を持つ歴史的な構築物である。言語と同じように、セクシュアリティも学ぶことができる。複数の言語を話すことができるように、複数のセクシュアリティをつむぐことができる。単一の言語を使用している場合と同じように、幼少期にある特定の性が押しつけられると、そうであることが自然の欲望のように思われてくる。私たちは、性の単一言語使用で育てられているのだ。性の単一言語とは、私たちが社会的な工作物として知覚できない言語、つまりそのアクセントやメロディーを十分に聴き取ることができないまま理解している言語である。私たちは、医療や法律による性別の割り当て、教育や処罰、読み書き、イメージの消費、模倣や身体的反復、苦痛や快楽を通して、単一セクシュアリティに入り込んでいく。(続

ポール・B. プレシアドの『カウンターセックス宣言』で、あまりも美しい段落に出会って数分絶句した。国も社会もクソだけど、ときどきはこういうクリスマスプレゼントがある。

会話は、ルールが明かされていない将棋くらいむつかしくて、しかもルールが最後まで明かされることもない。ルールが最後まで明かされないゲームに面白さを感じる理由は無いように思うのだけど、そもそも会話をそんなゲームとして感じる人はあまりいないようだ。

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