大河ドラマの主要登場人物に、最大多数の最大幸福を本気で考えてゲロ吐きながら算盤と人間関係を調整するみたいな英雄が出てこないのもうんざり。税金使ってスポーツ大会ノリで戦争やって、死ぬのは税金を収めてる顔も出番も死体もない雑兵で、それらを顧みずに上流階級だけで家族ドラマをして「人間でござい」みたいなの、もうほんと糞。
クィアによる生存と抵抗の為のデモやります。よければシェアお願いします。
https://twitter.com/niigata_pride/status/1622568448122572800?t=vS_Ms_VilfPfPO7YB5-NsQ&s=09
芥川賞・直木賞の主催側は候補者全員に授賞式用の衣装を作らせておくべきだなって思う。代金とスタイリストもつけて。
こざっぱりと着飾った若者や、その付き添いでシックに纏まった格好の中年女性を多く見かけ「統計や世相と裏腹、世の生活水準は上がっているのか?」と思ったら、振り袖がぽつんと目に入って、成人式、となりました。
引用続き
承前)しかしそれでも私たちは、認識や権力や欲望の異なる体制のもとで、他のどのようなセクシュアリティにも入っていくことができたはずなのだ。私たちは、多少の疎外感や距離感をもちながらも、自由、喜び、充足を感じながら、他のどんな性の言語をも学ぶことができる。別のセクシュアリティ、欲望と快楽の別の生産体制を学び、発明することは可能である。この宣言は、セクシュアリティを言語と美学として考え、性の形式主義、再生産の機能主義、二元的な物の見方の規則などを乗り越えるよう呼びかける。カウンターセクシュアリティとは、私たち自身のセクシュアリティの異邦人となり、私たち自身の性のモノリンガル状態を脱自然化し、性的な翻訳作業のなかで自分自身を失い、自分自身を発明しようとする試みなのである。”
『カウンターセックス宣言』より引用
ポール・B. プレシアド『カウンターセックス宣言』
pp.28-29
“この宣言は、セクシュアリティを精査や性同一性に還元することはできないと主張する。ここではセクシュアリティとは、身体の政治、身振りの美学、関係の倫理として定義される。セクシュアリティは言語のようなものだ。コミュニケーション、発明、生命の再生産などから織りなされる複雑なシステムである。言語と同じように、セクシュアリティも、特定の系譜や生文化の刻印を持つ歴史的な構築物である。言語と同じように、セクシュアリティも学ぶことができる。複数の言語を話すことができるように、複数のセクシュアリティをつむぐことができる。単一の言語を使用している場合と同じように、幼少期にある特定の性が押しつけられると、そうであることが自然の欲望のように思われてくる。私たちは、性の単一言語使用で育てられているのだ。性の単一言語とは、私たちが社会的な工作物として知覚できない言語、つまりそのアクセントやメロディーを十分に聴き取ることができないまま理解している言語である。私たちは、医療や法律による性別の割り当て、教育や処罰、読み書き、イメージの消費、模倣や身体的反復、苦痛や快楽を通して、単一セクシュアリティに入り込んでいく。(続
小謂雨りよ(こいう りよ)
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こちらには昔作った映像がふたつだけ。サミュエル・ベケット作品が好きなら「"Not I" plays something "Quad"」はおすすめ。