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困っている人のために自分が何ができるか、声なき声を本当に心から聴いて、その苦悶、悩みをいかに楽な方へと向かわせるために共同するかー
自分は本質の核中の核はそこだと思う。文上の法華経如来寿量品第十六の「我本行菩薩道」もそれを無限に行為としてしつづけるかどうか、人生の態度としてその行為をするかしないか、求められているのかと。
菩薩道のない文底読みはだから正直言葉を繰り出すだけで、本質意味はないのかと、、、

慈悲というのか、何というのか。
でも、仏教の基本はやはり「生きている苦しみ」を少しでも和らげ、その人を助けることにあると思っています。それが仏様に念仏を唱えて得るのか、自分で修行して悟りを得るのかの違いはありますが。

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