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特別な意見に捉えられた心、あるいは観念、信念、教条の網に掴まえられた心…そのような心には確かに再生はあり得ません。それは生を新たに見ることができません。それらのものが脇にやられ、心が自由であるときだけ、心は生を新たに見ることができるのです。

私が無事でいたいと思ったり、銀行預金やいろいろな楽しみを持ちたいと望んでいる限り、また生理的、あるいは心理的に何かになりたいと思っている限り、必ず苦しみがあるのです。私が苦しみを避けるためにやっていること自体が、恐怖と苦痛を生み出すのです。

目覚めた精神、内から燃え上がる精神にとっては、どんな種類の働きかけも不必要である。

あなたが今変わらなければ、将来も決して変わることはありません。というのは、明日起こる変化とは単なる修正に過ぎず、変換ではないからです。この変換は即時に行なわれます。革命は今であって、明日ではありません。

社会は「あなた」と「私」との関係が生み出したものなのです。つまり、社会は私たち自身の内部の心的状態を外部に投影したものに他ならないのです。ですから「あなた」と「私」がお互いに理解していなければ、単なる外部―内部の投影されたもの―の変換は全く無意味なのです。

意見を養い、それを鋭利で堅固なものにしていくことはできる。そして我々のほとんどの行為はこの好悪原理に基づいている。経験と知識は堅固にされ、それは行為に現れる。けれども、そのような行為は人と人とを互いに分かつものとなる。意見や信念こそは、在るがままにものを見ることを妨げるのである

根本的にまちがった社会に、正しい生活などありえません。現在世界中で何が起きていますか?それがどんなものであれ、私たちの生活が私たちを戦争へと、広く行き渡ったみじめさ、破壊へと追いやるのです。これは明白な事実です。何であれ私たちのすることが避けがたく対立を、腐敗を、無思慮と悲しみを生み出すのです。だから現代の社会は根本的にまちがっているのです。それはねたみ、憎悪、権力欲の上に建てられています。ちがいますか?【人生をどう生きますか?セクション3第1章第1節】

宗教心とは、宗教を信ずる心とはまったく別物である。宗教心はいかなる恐怖も信念も存在しない心の状態であり、そこに存在するのはただあるがままのもの…実際にあるものだけである。

悲しいことに人は空しさをおおうために所有へのいたずらな努力を重ねるのである。そのような努力から支配欲と自己主張が生まれ、それはさらに空虚な言葉と、過ぎ去って決して戻ることのない物事への様々な追憶を伴うのである。

私たちが内的に依存しているとき、伝統は私たちに大きな支配力を及ぼします。そして伝統の線に沿って考える精神は、新しいものを発見できません。順応によって、私たちは凡庸な模倣者、冷酷な社会という機械の歯車となります。【人生をどう生きますか?セクション1第4章第7節】

自由は、いかなる種類の安定も持たないことにあるのです。

意見を養い、それを鋭利で堅固なものにしていくことはできる。そしてわれわれのほとんどの行為はこの好悪原理に基づいている。経験と知識は堅固にされ、それは行為に現れる。けれども、そのような行為は人と人を互いに分かつものとなる。

瞑想は、あらゆる思考、あらゆる感情を自覚することであって、その善悪を断定しないでただ見守り、それと行動を共にすることである。

瞑想とは精神を既知なるものから空しくすることである。既知なるものとは、すなわち過去である。空しくすることは蓄積の終わりに起こるのではなく、むしろ何ものも蓄積しないことを意味する。

私の心、あなたの心は過去のものの結果です。それは過去のものに基づいています。その思考は過去のものの結果です。それが時間です。

反抗とは何かに対する反応であり、反発することであって、それはそれ自身の制約作用によって自縛状態を招くだけである。どの世代も過去の世代に制約されているので、単に制約条件に反抗するだけでは、すでに制約され条件付けられた精神を自由にすることはできない。

あるがままの現実を快や苦痛を交えずにあなた自身の目でじかに見ることが必要である。自由とはそのようにひたすら見ることであり、そのように見ることが自由なのである。そして自由であってはじめて、あなたは曇りなく見ることができるのである。

オープンな精神を持つことは学習より重要です。そして私たちは、情報を詰め込むことによってではなく、自分自身の思考と感情に気づくことによって、自分と自分に作用する影響を注意深く観察することによって、他の人たちに耳を傾けることによって、オープンな精神を持つことができるのです。

皆さんは、絶対に、いかなる理想、概念、信念ももってはならないのです。なぜなら、これらはすべて人間を滅ぼしてきただけで、問題の解決にはならなかったからです。

リアリティは逃避の中でではなく、生きることの中でだけ理解されうるのです。人生の目的を追い求めるとき、あなたは実際は逃避しているのであって、あるがままの生を理解しているのではないのです。【人生をどう生きますか?セクション1第7章第5節・自我の終焉より】

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