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人はただひとりあらねばならない。しかしただひとりあることは孤立ではない。ただひとりあるとは、錯雑とした貪欲と憎悪と暴力の世界、痛苦に満ちた孤独と絶望から自由であることである。

私たちは私たちの中の空虚を知識で、儀式で、噂話で、会合で…無数のやり方の逃避で充たそうとする。

瞑想とは、何かをその一部だけでなく全体を完全な注意を払って見つめる心の状態である。

生きた心は静かな心であり、生きた心は中心も空間も時間も持たない心である。こうした心は無限の拡がりを有しており、それは唯一の真理、唯一の真実である。

人はどんな荷物もたずさえず、軽やかに、何の努力もせず、あるいはいかなる神殿や記念碑または社会的、宗教的な英雄にも気を取られることなく、ただひとり美と愛をたずさえて旅しなければならない。

思考は教会を建立し、救世主や導師を生み出してきた。思考は国家あるいは国民性といったものを考え出し、さらに国民を互いに反目し、対立しあう様々な集団や階級に分けてきた。思考は人と人を引き離し、孤立させ、そのようにして混乱と大きな悲しみをもたらしてきた。

すべての事柄を、言葉や理知の上ではなく、ありのままに観察することによって、心身は非常に鋭敏になる。

政治家や僧侶、偉人と呼ばれる人々は常に各人の公式に従って行動し、他人をその公式に従って生きるように強制しようとしている。そして思慮のない愚かな人々は常にかれらの言葉や約束、希望によってがんじがらめにされてしまうのである。

意見を養い、それを鋭利で堅固なものにしていくことはできる。そして我々のほとんどの行為はこの好悪原理に基づいている。経験と知識は堅固にされ、それは行為に現れる。けれども、そのような行為は人と人とを互いに分かつものとなる。意見や信念こそは、在るがままにものを見ることを妨げるのである

精神をあらゆる条件づけから自由にするためには、思考抜きでその全体性を見なければならない。

所有物は、われわれがそれらを所有する以上にわれわれを所有してしまう。城、家、絵画、書物、知識―こうしたものが人間の存在よりもはるかに大きな重要性を帯びてくるのである。

敵と味方はともに我々の思考と行動の産物です。私たちは敵の創出に責任があり、だから私たち自身の思考と行動に気づくことのほうが、敵や味方と関わるよりも重要なのです。というのも、正しい思考は分割を終わらせるからです。愛は敵と味方を超越します。【人生をどう生きますか?セクション2第2章第6節】

昨日、あるいは数多くの昨日からなる過去すなわち思考が、『私が前に感じたような幸福な状態にいつまでもいたい』と言うわけである。あなたは死んだ過去を現在によみがえらせ、それが明日なくなるのではないかと恐れているのである。こうして連続性の鎖が作りあげられる。

われわれはあらゆるものから自分自身を分離させ、しかる後に、その孤立したところからあらゆるものに目や耳を向けるのである。そのような分離こそは、あらゆる葛藤や混乱の温床であり、それゆえきわめて破壊的なのである。

善良であるというのは今現在におけることである。それに対して、善良になるというのは未来の事柄であって、それは信念、あるいは比較と時間の公式にとらわれた精神が考え出したものなのである。比較計量があるところでは真の善性は姿を消してしまうのである。

自分自身を知るには、人は動きの中にある自分、つまり関係に気づいてなければなりません。あなたは自分自身を孤立や引きこもりの中にではなく、関係の中に発見するのです。

精神がいかなる解答も結論も求めず、抵抗も回避もせずに静止した時、その時にのみ新生が起こりうるのです。なぜならその時、精神は真理であるものを知ることが出来るからです。そしてあなたを解放するのはこの真理であって、自由になろうとするあなたの努力ではないのです。

数多くの断片をまとめて一個の全体にまとめあげることによっては英知は生まれない。

信念は恐怖や伝統から生まれる。二千年あるいは一万年にわたるプロパガンダこそは、儀式、教義、信念といったものに包まれた、宗教的な言葉の構造の正体である。そのとき言葉はきわめて重要になり、そうした言葉の反復が、信じやすい人々を催眠状態に陥らせるのである。

新旧の別を問わず、伝統には何ら神聖なものはない。頭脳は昨日の記憶に他ならない伝統を引きずって歩き、新たなものに直面できないために、おびえながら伝統にすがりつくのである。

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