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見るためには、信念は不要である。それどころか、見るためには信念を持たないことが肝心である。信念を持つという肯定的状態ではなく、否定の状態にあるときにはじめて、あなたは曇りなく見ることができる。

精神や心情が、教育や、社会によって定められた豊かな感受性を否定するような規範へ順応することで鈍磨させられてしまったように、我々の肉体もまた鈍磨させられてしまったのである。

見ることは、ただ「あるがままのもの」だけが明らかなところの、否定の状態である。これに対して信念は偽善を生むところの虚妄の公式であって、その偽善こそはすべての若い世代が反抗している当のものなのである。

私たちは方式や、方式に基づいた観念や価値観の変革によって、社会の改革を期待しています。そして実は「あなた」と「私」が社会を作っていることや、私たちの日頃の生活態度によって、混乱や秩序が生まれるのだということをわすれてしまっているのです。

皆さんは、欲望がどんな混乱を世界に引き起こしてきたか見ようとしません。個人的安定、自分の達成、成功、権勢、地位、威信への願い。自分がすることすべてに全責任があるということを感じていないのです。

昨日、あるいは数多くの昨日からなる過去すなわち思考が、『私が前に感じたような幸福な状態にいつまでもいたい』と言うわけである。あなたは死んだ過去を現在によみがえらせ、それが明日なくなるのではないかと恐れているのである。こうして連続性の鎖が作りあげられる。

私たちは私たちの中の空虚を知識で、儀式で、噂話で、会合で…無数のやり方の逃避で充たそうとする。

快楽と真摯さを両方一度に求めるから絶望的になるのである。一方で真摯になろうとして、他方では世間的な快楽を求めようとしている。けれども世俗的な快楽は結局のところいかにも卑小なので、さらに加えていわゆる「神」という快楽を求めるようになるのである。

問題は私たちが何を考えるかであって、他の人たちが私たちに考えてもらいたがっていることではありません。伝統に追随するとき、私たちはすぐに、「こうあるべし」ということのたんなるコピーになってしまいます。【人生をどう生きますか?セクション1第4章第7節】

意見を養い、それを鋭利で堅固なものにしていくことはできる。そしてわれわれのほとんどの行為はこの好悪原理に基づいている。経験と知識は堅固にされ、それは行為に現れる。けれども、そのような行為は人と人を互いに分かつものとなる。

根本的にまちがった社会に、正しい生活などありえません。現在世界中で何が起きていますか?それがどんなものであれ、私たちの生活が私たちを戦争へと、広く行き渡ったみじめさ、破壊へと追いやるのです。これは明白な事実です。何であれ私たちのすることが避けがたく対立を、腐敗を、無思慮と悲しみを生み出すのです。だから現代の社会は根本的にまちがっているのです。それはねたみ、憎悪、権力欲の上に建てられています。ちがいますか?【人生をどう生きますか?セクション3第1章第1節】

思考というものはすべて自由ではありえず、常に古い存在であることを十分に理解したときに生まれる沈黙は、瞑想者がそこに存在しない瞑想である。それは心が過去から完全に脱却したからである。

我々が真に孤独になれるのは、問題に直面したら問題を明日にひきのばさないでその場でそれを解決する場合である。それ故、多くの人がいる家の中にあっても、バスに乗っていても、孤独になる事ができるのである。この孤独が常に新しい心、天真爛漫な心を示しているのだ。

皆さんは、絶対に、いかなる理想、概念、信念ももってはならないのです。なぜなら、これらはすべて人間を滅ぼしてきただけで、問題の解決にはならなかったからです。

思考の役目は道理をわきまえること、明快、客観的、能率的、的確に考えること、です。そしてもしもあなたが自分の虚栄心や、自分の成功、自分の達成に縛られていれば、的確、明晰、能率的に考えることはできません。

生きることの意味を十全に理解するには、私たちは自分のこんがらがった日々の苦しみを理解しなければなりません。私たちはそれから逃れることはできないのです。私たちが暮らしている社会は、私たちめいめいによって理解されなければなりません…誰か哲学者とか、教師とか、グルによってではなくて…【人生をどう生きますか?セクション1第6章第4節】

世界はあなた自身の延長であり、世界は複製され、増幅されたあなた自身なのです。【人生をどう生きますか?セクション2第5章第2節】

思考は時間です。思考は記憶、知識、経験であり、知識と経験が脳に記憶として貯えられているのです。そして、それは時間の結果です。知識の増殖、知識の広がり、知識の深さは時間のものです。

生は、多くの複雑で素早く変化する問題を内包しながら、決して静止することなく、毎日毎分、新鮮なアプローチを要求しているのです。だから、我々がこの生に出会うとき、そこには条件づけられ固定化された心と、絶えず動いてやまない生との間の絶え間ない葛藤があるのです。

愛は無名であり、それゆえ暴力を生まない。快楽においては願望と意志がその動因であり、それゆえに快楽は暴力を生むのである。

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