新しいものを表示

私たちは、私たちの思考が記憶の応答であり、その記憶は機械的なものであることをはっきりと理解しなければなりません。

正しい生活とは、社会のモラルに従うことではなく、羨望、貪欲、権力の追求など反感や憎悪を生む一切のものから自由になることである。これらからの自由は、意思的活動ではなく自己認識を通じてこれらに気づくことによって生まれる。

所有があるところに、愛はありえません。所有とは愛の破壊なのです。【人生をどう生きますか?セクション2第2章第8節】

安定―あらゆる種類の安定―に基づいた道徳に依拠している人々は道徳的ではありません。なぜなら、安定願望は恐怖の結果だからです。私たちが道徳と呼んでいるものは恐怖と強制であって、実は少しも道徳的ではないのです。

政治的、宗教的、経済的に、いかに入念に制度を築こうと、私たちの内なる意識が全面的に秩序だっていないかぎり、その無秩序は、常に外部を圧倒してしまうことでしょう。

欲望は、思考がイメージを作り上げるときに起こるのです。それが欲望の源なのです。それ以前に欲望はないのです。

私たちが内的に依存しているとき、伝統は私たちに大きな支配力を及ぼします。そして伝統の線に沿って考える精神は、新しいものを発見できません。順応によって、私たちは凡庸な模倣者、冷酷な社会という機械の歯車となります。【人生をどう生きますか?セクション1第4章第7節】

私が自我を全体として完全に、すっかり見て取ることができた時にのみ、私は自我というものを理解し、そして自我から開放されるのです。

私たちが自分の生活を綿密に調査し、自他の関係を注意深く観察するなら、それらが他人に対して抵抗という壁を築く過程であり、私たちはその壁越しに他のものを見たり観察したりしていることに気づくのです。しかしながら私たちは常にこの壁を大切に守り、その背後に居座っているのです。

本当は、あなたは真理や神を求めているのではないのです。あなたは持続する満足を求めているのであって、その満足を神とか真理というような観念や、体裁の良い言葉で覆っているだけなのです。

私たち各人は、私生活においてもやはり暴力的です。私たちは腹を立てます。私たちは自分を批判する人を好みません。私たちは自分の生き方に口をさしはさまれることには我慢できません。私たちはたいそう防衛的で、だから攻撃的です。そのとき私たちは特定のドグマ的信念にしがみつき、国旗と呼ばれるボロキレ共々、 自分の国を崇拝したりするのです。【人生をどう生きますか?セクション2第2章第9節】

私たちはあまりにも自己中心的で、自分の心配事や損得勘定でいっぱいになっているので、観察し、理解するための時間を持っていないのです。

政治的、宗教的、経済的に、いかに入念に制度を築こうと、私たちの内なる意識が全面的に秩序だっていないかぎり、その無秩序は、常に外部を圧倒してしまうことでしょう。

もし私たちが、けちで、嫉妬深く、虚栄心が強く、貪欲であれば、その通りのものを私たちの周囲に生みだし、それが私たちの住む社会になるのです。

我々自身が分裂し断片化すれば、我々と世界との関係もまた分裂するのである。だが、我々が行動する時に全的に行動するならば、我々と世界との関係は大きな革命をとげることになろう。

私たちは、私たちの思考が記憶の応答であり、その記憶は機械的なものであることをはっきりと理解しなければなりません。

「私」は記憶の束です。それは時間であり、単なる時間の継続は、あなたを時間を超えた永遠なるものへと導くことはありません。

我々は、絶望と希望、恐怖と快楽、愛と憎悪という果てしない対立物の陥穽にはまっているのである。そうした対立物が我々の生を満たし、生の闘いを引き起こすのである。こうした対立物は同じ根から生えている二本の枝であって、根本においては同じものなのである。

私たちはほとんど独立した思考や感情というものをもちません。思考や感情が起きるとき、それらはたんなる反応で、だからそれは既成のパターンから自由なものではないのです。

もしも私たちが内的にみじめで、混乱しており、カオス状態にあるなら、それが投影されて世界となり、社会となるのです。なぜなら、あなた自身と私自身との関係、私自身と他の人との関係が社会だからです。【人生をどう生きますか?セクション1第1章第6節・自我の終焉第3章より】

古いものを表示
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。