思い出した。桂場の顔についていた桜の花びらを寅子が取るくだりをもって、本作における桂場は「人と人との関わりを持って考えを変え、保守団体の設立をしない道に進んだ隠喩」という読みを見かけた。桂場と彼のモデルの一つである石田和外は大幅に異なる人物として描写されており、さらに桂場に保守的な一面があるかいなかはまったく言及されていない以上、そうした隠喩だとするのは希望的観測としかいえないのではないか。
また、仮に作り手がそうした意図でもって描いたのなら、批判すべき対象を登場させず「ドラマは現実よりも良い状況になった」と述べていることになる。手法としてはかなりだめだろう。もしやるなら、桂場が保守団体を設立しようとし、しかし寅子との関わりをきっかけに判断を変える、とはっきり描かなくては。