女女のスメイワのために19世紀後半ロシアの女子教育の資料を集めてるんだけど、こないだ読んだ橋本伸也『エカテリーナの夢 ソフィアの旅』では、女性解放運動の盛り上がりと地方中小貴族の没落と女性の就労問題が背景となって60年代に女子高等教育が整備されはじめるものの、保守派の反動と社会運動とのつながりが問題視されたことが原因で頓挫、70年代から医療(助産師)や教育の分野でようやく高等教育の門戸が開ける(ただし職業資格は別)というような話があり、チャイコフスキーの妻を見ながら思い出していた。
当時ドストエフスキーは人気作家で、アンナとソフィアの姉妹は二十歳以上年下だったのだが、アンナの小説への返事として書いた手紙がほんとに心のこもったいい手紙で、相手を子供扱いもしてないし初心者扱いもしてないんだよね。それでいて瑕疵はきちんと指摘するし、その上で心のこもったエールを送る。
ドストエフスキーからの手紙と小説の報酬は父親を激怒させる。娘が見も知らぬ紳士から金銭を受け取ったことは「この上もない恥ずべき不快なこと」で、父親は「知らない男と手紙のやり取りをしたり、親たちにも内証でその人から金をもらったりする若い娘には、どんな注文でもできる。いまお前は作品を売った。しかしいつかはお前の体を売らないとも限らない」と非難した、というのも時代性を感じさせるエピソード。この後父親は娘の小説の朗読を聞いて態度を軟化させ、手紙を見せるという条件付きでドストエフスキーとの文通を許した。
この時高等教育から締め出された女性たちのうち運のいい人は、支援を受けて外国の大学に行ったのだが、当時は夫か父親の許可がないと外国旅行ができなかったため、賛同者の男性と「白い結婚」をしてスイスやドイツの大学に学ぶ者もいた。『ソフィアの旅』のオマージュ元と思われるソフィア・コヴァレフスカヤは「白い結婚」でドイツの大学に学び、ロシア初、ヨーロッパでも三番目で、大学教授の職を得た女性となった。
ロシアで初めての医学博士となるナジェージダ・スースロヴァはスイスのチューリヒ大学へ。チューリヒ大学では、60年代末から70年代にかけて、女性の留学生、特にロシアからの留学生が増加するが、ロシア政府はこれに対して、1874年以降もチューリヒ大学で聴講を続ける者は、帰国してもいかなる仕事も試験も受けることはできないという布告を出した。