しかし、私の考えでは、1936-37年ごろの京成と後藤は、新規事業を探す必然性に迫られていたのです。京成は東京の都市化で順調に成長しており、1936年に大規模な増資を行います。この増資に際して後藤は新たな株主を探し、川崎財閥は増資に応じず、後藤は資本的に川崎から独立します。

京成はこの時点で、上野乗り入れも完成し、新線建設はとりあえずありませんでした。なのに大規模な増資をしたのは、新規事業の目論見があったからなのです。それは、京成最大の兼業だった、千葉の沿線での電気供給事業を、一挙に千葉全県にまで広げようというものでした。

千葉県は水力発電の適地に乏しく、電化は進んでいませんでした。そこで小規模なガス力発電を行う帝国瓦斯電灯という会社が起こり、あっちこっちに小さな発電所を拵えて勢力を拡大し、帝国電灯と改称します。しかしこれは規模の経済からすれば不経済な経営で、割高な電灯料金で経営を維持していました。

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まぁ、房総半島の地形を考えれば、高低差を確保できる水源地などまず無いからなぁ。ガスは地元産を使っていたのかな。 [参照]

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