ブログを更新しました☞「国立国会図書館デジタルコレクション」のリニューアルを受けて(その4・「 」の「よみ」⑴) : 地誌のはざまに
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今回は集計作業で相当に手間が掛かりました。「デジタルコレクション」上で検索してヒットして出て来たURLを逐一踏んで中身を確認する必要があったので、流石に時間が必要で…。もうこういう作業はやりたくないw。

ひょー興味深いです👀ひとつめの「三方会合記録」が非在住者によるものであるあたりも、かなり気になりますね👀

「平塚市史」の「三方会合記録」の解説によれば、伊勢よりも熊野の方がこういう全国的な御師ネットワークが密接にあったそうです。

となると、江戸時代より前のこういう信仰の全国ネットワークの展開って意外に早かったんだなぁと。中世の参拝の形態が江戸時代と比べてどうだったのかまではわかりませんが。

そうですね、熊野というと修験道と山岳信仰もかかわってきますし……。

あと地元民でないと「鵠沼」という漢字を見て、音を知らずに「くぐひぬまねー」と理解した可能性もあるかなと思ったんですよね。そうするとそもそも「鵠沼」は当て字だった可能性もあるよなあ……とか……ここまで行くと言語学の世界に踏み込んじゃいますねえ……

その辺の地名の由緒の点はなかなか厄介ですよねぇ。そもそもの興りのところは記録に残っていないことが殆どですし。

鵠沼の場合、先にあった地名は「とかみ(土甘)」の筈なんですが、それと「鵠沼」の関係がどうなっているのかもきちんと整理されていないんですよね。「三方会合記録」に両方の地名が書かれているということは、少なくともこれを書いた人の認識は別の場所だったことになるんですが、江戸時代の鵠沼村は当初「土甘」と呼ばれていたと考えられている地域(砥上→石上)を含んでいますし。それでいて鵠沼が当初は大庭御厨という荘園の一部だったということになると、その前は未開の地だったのかなとか、起源を考える上で不明なところがまだまだ多いというのが印象ですね。

大庭御厨……鎌倉権五郎ですね……🤔 今ちゃんと(ようやく)地図で見てみたんですが、鵠沼駅辺り、いかにも上古は海の中な感じがする砂丘地帯ですねえ。海岸線の後退とともに生まれた場所で地名として新しいとか、権五郎が干拓したまでなくもなさそうな……

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鵠沼の一帯の地形の変遷についてはこちらが詳しいです。
kugenuma.sakura.ne.jp/k085a.ht
境川や引地川が一帯を埋めていく中、流路を変えながら低湿地を形成していった辺りを荘園化したという位置付けになるんでしょうね。

余談ながら、「天養記」に見える源義朝の「狼藉」も、義朝側からすれば境川の流路の変遷でかつての鎌倉郡域が川向うになってしまったので、元の流路の位置まで鎌倉郡域だという主張だったのかも知れないという気がしています。勘繰ればの話ですが。

おおーありがとうございます! ラグーンだったんですね。義朝の件は背景がいろいろと考えられると、これもどこかで読みました……(記憶よ……)

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