昨日見た演劇の感想。同棲カップルが、互いの演劇論を交わしながら痴話喧嘩する話。お客と距離の近い狭いスペースで、二人の役者によって演じられる。
(3/3)
▼観客にとって親しみやすい題材をとった、未知の音楽。
渋谷慶一郎の初音ミクオペラ「THE END」のように、その題材のファンが関心を持つプログラム。これは観客が作品自体に向き合うのではなく、解釈することが楽しみの主軸になってしまう可能性を孕むが(たとえば無調の曲を「初音ミクの狂気」の表現ととらえるなど)、「こないよりマシ」「少しでもいいから現代音楽に触れてほしい」というスタンスであれば許容できるのではないか。題材との親和性も問われそうで、前衛的な表現が許容されるIPと組み合わせられないか。
ex.現代音楽で表現される「ニンジャスレイヤー」コンサート(難解な音楽を原作世界観の中で表現。ニンジャが途中で現れて演奏者は
昨日見た演劇の感想。同棲カップルが、互いの演劇論を交わしながら痴話喧嘩する話。お客と距離の近い狭いスペースで、二人の役者によって演じられる。
(2/3)以前、知り合いの現代音楽作曲チームが、集客に悩んだ結果「ポップな現代音楽」というコンセプトで、調性音楽と総音列音楽がミックスされていたり、無調の曲にビートがついていたり……という試みをしていたことがある。個人的には否定的な感情を持っていたが、今では、努力の意味を身に染みて感じる。ただ、現代音楽がお客さんにとって「未知のもの」であるから聴きにこないという仮説を立てるならば、次のようなプランを検討して見たいと思った。
▼既知の音楽が未知の音楽に変化していき、それを楽しませるプログラム。
既知の音楽(調整音楽やポップス等が、徐々に複雑な曲(たとえばポップスの中でも複雑なもの)になり、最後は無調や総音列音楽に辿り着くように、音楽史をプレゼンテーションする。これは私が出席するトークイベントでたまにやるのだが、お客さんに好きな曲を一曲あげてもらい、その音楽史的なバックグラウンドを語るネタは非常にウケが良い。先日のイベントではbishの「オーケストラ」が題材となり、300年前から、音楽がいかに発展してbishにたどり着いたかを示した。
昨日見た演劇の感想。同棲カップルが、互いの演劇論を交わしながら痴話喧嘩する話。お客と距離の近い狭いスペースで、二人の役者によって演じられる。
(1/3)アマチュア演劇というものを初めて見たが、物語や演技などの内容によらず、「ステージと客席があって、役者が客を無視してドラマを演じる」「どんどん話題が展開していき、最後は感情が爆発して終わる」といった様式があれば、どんな内容であれ、安心して見ていられる点が非常に興味深かった。お客さんにとって「目の前で起きている事象は、既知のことである」と情報処理すること自体が快になっていると感じた。
今、自分でラジオ番組を作ろうと計画中だが、前衛的な内容や様式を持たせたいのであれば、いかにお客さんとの接点を考えるか(キャッチコピーや、お客さんの見たい夢を想起させること)、安心して見続けられるか(既知の話題や、既知の様式)といった方法が極めて重要になりそうだと感じた。
仮面ライダーで、大人の暴力と性暴力を描くのはやめてほしい
僕にとって特撮ヒーローは心の安全地帯なので、その中に現実の暴力が表現されているのがすごく嫌......
昨年「仮面ライダーギーツ」の最後の敵はヤクザで、警棒で女性を脅しつけるシーンなどがあり、非常に嫌な気持ちになった。「ギーツ」はデスゲームを題材にとった、明らかに子供を眼差していない内容ではあったのだが、一線を超えていると思う。今年の「仮面ライダーガッチャード」はさらに悪化しており、学園生活を舞台にした明るくて軽い話なのに、ヒロインを誘拐して性暴力を匂わせる男がカジュアルに(ザコ敵として)登場するなど、基本的な倫理観が劣化していると思う。
ということで、改めて1987年「仮面ライダーBlack」を見ているんですが、こっちにも政治家の腐敗や、怪人による殺戮などの残酷シーンがある。あるが、「怪人が人を襲う」ことと「人が悪意を持って人を襲う」ことの表現の質的な違いは大きいと感じた。Blackは、少し安心して見られる上品な怖さ、現実との接点に思いを馳せられる余裕を持った怖さだと思う。
つまり令和ライダーの安っぽさが、心理的安全性を失わせているのかもしれない。制作陣は、何が許されるのか葛藤しながら演出できているのだろうか?
音と音楽