5,000文字の件、Hostdonのアップデートでホスティングしてるサーバに一律適用したことの影響だよね。
Mastodonの投稿できる標準の文字数は500文字で、この数字自体にはそれほど根拠はないと思うけど、バランスを考えて決めた数値だと思う。
PleromaやMisskeyなどの別の実装は特に関係ないので、3,000文字だったり5,000文字だったり、好きなように変更できたりするんだけど。
ホスティングサービスが標準を変更して一律適用してくるっていうのは、なかなか強い介入だなあ。
(特にオチはありません)
QT: https://mstdn.hostdon.jp/@hostdon/109345833576016227 [参照]
今、「永遠の海」を読み直していて思ったけど、死んだらまた引き離されるのか、という不安や寂しさ、「一緒である」「一体である」ということが永続しない寂しさは、レヴィナスの思想の果てでは解決するような気がする。死は「我」的なもの、「我」に同じゅうする「我」的世界からの脱出なので。他者が死へ退引していくのを私が追いかけ、私が死んで私の世界がクローズするなら、それはつまり、私が私から脱出することを意味しているような気がする。
私が他性の世界に行くことを意味しているのか、はたまた徹底的な消滅を意味しているのかは分からないけれど、それでも、それは少なくとも彼我の間に横たわる断絶の消滅だし、全てがひとしなみになるという意味で一致でもある気がする。il y aからの脱出。
桜塚星史郎みたいな人間を思いつけた大川七瀬は凄いなあと思う。
以前書いた「永遠の海」「海の味」とかは結構、悲しくなるほど渇望している他者の他者性の話だったなーと思いつつ(そして正しく愛撫の話であり、エロスの話であり、自己と他者との間にある断絶を超えられないことの話だった)、これらは今まで私の中で答えがなくて、「まあ突き詰めようとしても特に良いことがないので毎日普通に暮らしましょうよ」みたいな、一種の世界苦扱いをして終わらせるしかなかったんだけど、今回レヴィナスの思想を少しばかり学んで、他者によって傷付き、侵され、変えられてしまいながら他者に手を伸ばして未来へ吸い込まれ続けていつかは滅ぶ、その落下そのものが人生であり、その不断の「傷付き」(つまり他者によって変えられ続けること)が「取得」であり、「傷」(変化)が「得たもの」なのではないかなあ、と思ったりした。
レヴィナスの言う他者は、特定の他者ではなくてもっと抽象的・概念的なものだとは思うのだけれど、けれど同時にレヴィナスはエロスのこと、愛撫のことにも言及しており、やはりそれは他者を「愛すべき存在」「愛おしい存在」として描写しているように思える。具体的な他者の顔に垣間見える抽象的な他者、という構図なのだとしても、しかしやはりレヴィナスの言う「私」は「他者」の裸形を見るし、愛撫をするので。それは愛おしさからそうする、もしくはdésirゆえにそうするのであって、そのようなものを抱かない相手(つまり他性の気配を感じないような他者)にはそれをしないということなのかなあ、とどうしても思ってしまう。通りすがりの人の顔に他者を認めたりはしない訳だよね。
熊野純彦『レヴィナス入門』を読んで、まあちょっとフェルマイのことを他所へ置いておくと、これはとても『星の時計のLiddell』だなあと思った。ウラジーミルにとってのヒュー、ウラジーミルの世界にとってのヒューは、紛れもなく「他者」であり、「他性」を帯びている。ウラジーミルはヒューがそのような「異質な」人間だからこそ彼を愛しているが、彼はウラジーミル(やその他多くの人)の世界に馴染まないからこそリデルの手を取ってこの世を去ってゆく。愛している理由と別れの理由は同一なのだ。
しかもウラジーミルのヒューへの愛ゆえか、あるいはヒューのウラジーミルへの愛ゆえか、ウラジーミルはヒューやリデルの世界に「異邦人」としての居場所(のなさ)を与えられてしまう。ウラジーミルもまたヒューにとっての他者であり、異質な、愛すべき存在なのかもしれない。
今まで私は、ヒューにとってのウラジーミルが分からなかったのだけれど、この本を読んで初めて、彼もまたウラジーミルを、その他性ゆえに何かの形で愛していた、愛している、のかもしれないと思ったりもした。
ヲタクの考えごととうめきです。二次創作の話などが出ます。