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ほしなみ さんがブースト

5,000文字の件、Hostdonのアップデートでホスティングしてるサーバに一律適用したことの影響だよね。

Mastodonの投稿できる標準の文字数は500文字で、この数字自体にはそれほど根拠はないと思うけど、バランスを考えて決めた数値だと思う。

PleromaやMisskeyなどの別の実装は特に関係ないので、3,000文字だったり5,000文字だったり、好きなように変更できたりするんだけど。

ホスティングサービスが標準を変更して一律適用してくるっていうのは、なかなか強い介入だなあ。

(特にオチはありません)
QT: mstdn.hostdon.jp/@hostdon/1093
[参照]

Hostdon公式アカウント  
また、今回のアップデートにて個別に要望が多かった文字数上限を5000文字に変更致します。

なるほど、fedibirdはv4実装まだなのねー。気長にお待ちしています、です。(5000字実装はやや楽しみ。必須ではないので削られてもまた良し)

やっぱりキリコに赫奕たる異端の運命を与えたの惨すぎると思うんだよな。酷すぎない?フィアナと眠らせてやれよ……。

全ての女神はガチで全ての女神なんだろうなあ。どんだけ揺さぶられたんだって感じだけどまあ出会ってから婚約するまでを思うと、およそ全ての喜怒哀楽含みなのは間違いないから確かに全ての女神……。

行動の話ではなく内面の話がしたい、というのはいつもあって、大抵のエンタメ作品は行動>内面で描くので私はそこにつけ込んでいるという感じ。

いざ自分で一から書こうとすると、行動が書けない。行動にあまり関心がないから……。

自分の脳みそ、大体CLAMP作品とか石川千晶の歌詞とかで動いている。

寂しくて泣いているのはマインだけど、根源的な寂しさを抱えているのはフェルディナンドの方で、だからマインの記憶に彼が泣くのは、マインに同調して泣くマインの涙というより、やはり彼の寂しさ、彼の悲しみ、彼の涙なんだろうな、と思う。

これ、「鳥が呼ぶもの」で同じようなこと書いたな。死っていうのは、命がこの世とは成り立ちの違う世界へ行くことだ、みたいな。

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いや、レヴィナスがそう言っているとかじゃなくて、そういう物語が書けそうですね、っていう意味です。

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今、「永遠の海」を読み直していて思ったけど、死んだらまた引き離されるのか、という不安や寂しさ、「一緒である」「一体である」ということが永続しない寂しさは、レヴィナスの思想の果てでは解決するような気がする。死は「我」的なもの、「我」に同じゅうする「我」的世界からの脱出なので。他者が死へ退引していくのを私が追いかけ、私が死んで私の世界がクローズするなら、それはつまり、私が私から脱出することを意味しているような気がする。

私が他性の世界に行くことを意味しているのか、はたまた徹底的な消滅を意味しているのかは分からないけれど、それでも、それは少なくとも彼我の間に横たわる断絶の消滅だし、全てがひとしなみになるという意味で一致でもある気がする。il y aからの脱出。

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二人といないキャラクターだと思う。大川七瀬が少々彼を暗示的、思わせぶりに描きすぎなところはあるにせよ、類型的ではないから読者が正しく読めないキャラクターでもあると思う。

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桜塚星史郎みたいな人間を思いつけた大川七瀬は凄いなあと思う。

桜塚星史郎、ネスティとかフェルディナンドとかが闇堕ちした姿だと言うことができるかもしれない。他者に変えられてしまうことを喜んで引き受ける、まさにその態度を悪用して居直っているので。最悪だ。

ここまで来て必ず思い出すのはやっぱりネスティなので、フェルマイはネストリに似てるなあ、の結論に至ってしまうんだねえ。

永遠に手に入りやしない、けれど自分を不断に変えてくる存在がいて、その様な浸潤をもって愛する他者が自らを訪い続けてくれるなら、それで良いではないか、それは一つの幸せではないか、その様にして他者に我が身を差し出して、死んでゆくことは。

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他者そのものは得られない、所有できないのだけれど(所有した途端、それは他者ではなくなってしまうから)、他者が自分を不断に侵し、変貌させる証/徴としての傷は、確かに自分に残るんだよな、と。まあ別に傷じゃなくても、変わってしまったな、という実感とかでも良いと思うんだけど。

他者がいなければこうはならなかった、というその、我が身の内にある他者の足跡、他者の残り香、傷、というものをもって、少しは根源的な寂しさを宥めてやることはできるかもしれない。
あるいは愛撫に内在するもどかしさと渇望とを抱えて、他者に手を伸ばして未来へと落下して滅ぶ、そのこと自体を幸せだと感じるようになるか。

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以前書いた「永遠の海」「海の味」とかは結構、悲しくなるほど渇望している他者の他者性の話だったなーと思いつつ(そして正しく愛撫の話であり、エロスの話であり、自己と他者との間にある断絶を超えられないことの話だった)、これらは今まで私の中で答えがなくて、「まあ突き詰めようとしても特に良いことがないので毎日普通に暮らしましょうよ」みたいな、一種の世界苦扱いをして終わらせるしかなかったんだけど、今回レヴィナスの思想を少しばかり学んで、他者によって傷付き、侵され、変えられてしまいながら他者に手を伸ばして未来へ吸い込まれ続けていつかは滅ぶ、その落下そのものが人生であり、その不断の「傷付き」(つまり他者によって変えられ続けること)が「取得」であり、「傷」(変化)が「得たもの」なのではないかなあ、と思ったりした。

一対一の、わたしとあなた、の関係で結びつくような他者についての話をしているからかもしれない。通りすがりの人とは、わたしとあなた、の関係にはならないから。

必ずしも恋人である必要はなくて、友人同士や親と子供とかでもあり得るなぁと思うが、一対一の真剣な、そして個別的な関係である必要があるのは確かだな。

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レヴィナスの言う他者は、特定の他者ではなくてもっと抽象的・概念的なものだとは思うのだけれど、けれど同時にレヴィナスはエロスのこと、愛撫のことにも言及しており、やはりそれは他者を「愛すべき存在」「愛おしい存在」として描写しているように思える。具体的な他者の顔に垣間見える抽象的な他者、という構図なのだとしても、しかしやはりレヴィナスの言う「私」は「他者」の裸形を見るし、愛撫をするので。それは愛おしさからそうする、もしくはdésirゆえにそうするのであって、そのようなものを抱かない相手(つまり他性の気配を感じないような他者)にはそれをしないということなのかなあ、とどうしても思ってしまう。通りすがりの人の顔に他者を認めたりはしない訳だよね。

熊野純彦『レヴィナス入門』を読んで、まあちょっとフェルマイのことを他所へ置いておくと、これはとても『星の時計のLiddell』だなあと思った。ウラジーミルにとってのヒュー、ウラジーミルの世界にとってのヒューは、紛れもなく「他者」であり、「他性」を帯びている。ウラジーミルはヒューがそのような「異質な」人間だからこそ彼を愛しているが、彼はウラジーミル(やその他多くの人)の世界に馴染まないからこそリデルの手を取ってこの世を去ってゆく。愛している理由と別れの理由は同一なのだ。

しかもウラジーミルのヒューへの愛ゆえか、あるいはヒューのウラジーミルへの愛ゆえか、ウラジーミルはヒューやリデルの世界に「異邦人」としての居場所(のなさ)を与えられてしまう。ウラジーミルもまたヒューにとっての他者であり、異質な、愛すべき存在なのかもしれない。
今まで私は、ヒューにとってのウラジーミルが分からなかったのだけれど、この本を読んで初めて、彼もまたウラジーミルを、その他性ゆえに何かの形で愛していた、愛している、のかもしれないと思ったりもした。

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