R18同人誌の話(投稿内容は全年齢ですが一応) 

『わたしのことり』というR18二次創作同人誌を書きました。自分でR18を書くとは思っていなかったので、へえ、自分ってそういうこともできるんだ?という辺りがちょっと意外です。

基本的に『わたしのことり』は書きたいように書いた、倫理とか思想とかよりもまずは「萌え」を優先したという認識でいるのだけど、それでも一つ真剣に考えていたことがあったとしたら、それはセックス(もしくは広く性愛的な接触)を通して「愛されている」と感じるには、何が必要なのだろう、ということでした。

『わたしのことり』は『本好き〜』の同人誌なのでそれに即して話しますけど、フェルディナンドという人はローゼマインに愛されたくて彼女の伴侶になった人だと私は認識しています。愛されたい、という渇望は勿論セックスだけで満たされるような性質のものではないけれど(作中では日常的なやりとりに基づく信頼関係の中で満たされうるものとして描かれていますし)、とはいえセックスの場面でもやはりその寂しさや飢餓感は前に出てくるだろう、という風にも感じていました。

(続)

R18同人誌の話(投稿内容は全年齢ですが一応) 

(承前)
話は少し逸れますが、二次創作における恋愛描写の「お作法」はいびつだな、と常々感じています。所謂「攻め」と「受け」という役割制が前提として存在しており、セックスをする人が書き手の意図によってどちらかに割り振られます。役割がスイッチしたり混濁したりすることは稀です。

男女のカップルの場合はほぼ間違いなく「攻め」が男性、「受け」が女性で固定化されており、同性同士のカップルでも「攻め」が男性性を、「受け」が女性性を有しているのは間違いありません(この「男性性」とか「女性性」という言い方が適切でなかったらすみません)。
「攻め」はセックス(あるいは恋愛や性愛に関する行為全般)においてリードする側であり、挿入する側。「受け」はリードされる側であり挿入される側。これが二次創作におけるセックス描写の「お作法」です。

この「お作法」の発生理由を私は知りません。私が二次創作を読む頃にはそうでした。
ただ、二次創作を享受する人々の経験してきたセックスにおいて、暗黙の裡にこのような役割制が存在していたからなのだろうか、と思うことがあります。こういう形でしかセックスを説明できない、描写できない、という感覚があったから、セックス描写はこうなったのかもしれない、と。
(続)

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R18同人誌の話(投稿内容は全年齢ですが一応) 

先日、小説家の村田沙耶香氏のインタビュー(gendai.media/articles/-/111786
を読んだのですが、その中で村田氏が「自分の性愛を自分のものだと感じたことがありませんでした。清潔で処女性のある肉便器になるのが自分の性愛の未来だと思っていて、それ以外の可能性を考えたことはありませんでした」と語るシーンがありました。衝撃的な言葉なのだけれど、同時に、ここまで突き詰めて言語化できる人が稀なだけで、ぼんやりとそう感じる人は多かった(そして今も多い)だろう、というようなことも感じました。

二次創作、あるいは同人誌におけるセックス描写の「お作法」は、例えば上記のような認識から生まれているのではないか、と思いました。ここまで突き詰めた言葉で考えた人ばかりではなかったにせよ、これまでの二次創作の書き手の多くが、女性の人生とは結婚と出産と家事と育児から成り立っているものだとぼんやり信じていた筈です(そうではない認識を持った人々の集まりだったとはとても言えません)。その意識の奥には、(夫という特定の)男性へ性的に奉仕し、その人の子を産んで育てるという女性像への、諦観を帯びた承認があった可能性は十分にあります。
(続)

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仮にそうだとしたら、二人の人間が対等な者同士としてセックスを試みる時、悲しい壁にぶつかったことでしょう。対等な者同士としてセックスをしたいのだけれど、さてそれはどのようにするのだろう、まるでロールモデルがない、ということになるからです。

その二人は多くの場合、妥協を強いられるでしょう。二人の内どちらかが「奉仕される=男」の役割を担い、もう片方が「奉仕する=女」の役割を担うという、虚しい妥協です。虚しいと言うのは簡単なのだけれど、虚しくないセックスの形をそこで提案するのはとても難しい。虚しくない形なんて知らない訳ですから。

「奉仕する=女」の役割を担わされることになる側が虚しいのは勿論なのですが、ここで私が思ったのは、対等な相手と触れ合いたい、そのような感情の表出としてのセックスがしたい、と本当なに双方が思っていたのだとしたら、「奉仕される側=男」を担う側も、また虚しいのではないかということでした。その人は別に、奉仕されたい訳ではない。村田氏の言う「清潔で処女性のある肉便器」を求めている訳では全くない、むしろそういうものはお引き取り願いたい筈なのに(そうですよね?)、そういうものを望んでいるかのようなロールプレイを強いられることになるからです。
(続)

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先ほどの「対等な二人が妥協を強いられる」という問題は、もしかしたら『本好き〜』のキャラクターもぶち当たる壁かもしれない、というようなことを思いました(ここに書いてあるような順序で考えた訳ではないですが)。ユルゲンシュミットは、現実のこの地球世界とは異なる世界ではあるけれど、やはり男女格差のある社会ですし、その上女性が「産む性」であることが更に強く意識されてもいます。

フェルディナンドとローゼマインは幸運にも、対等に愛し合える関係になった、あるいはなりつつあると読みうるのですが、ではその二人がセックスをしようとしたらロールモデルはあるのかしら……と思うと、多分ないのですよね。少なくともユルゲンシュミットには存在しないし、フェルディナンドの側には負のロールモデルばかりがある。彼自身はローゼマインに愛されたい一心で彼女の夫の地位を射止めた人ですが、ユルゲンシュミット貴族社会にあらかじめ用意されているセックスの図式は、まず間違いなく奉仕する側とされる側による役割固定制セックスです。(続)

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もう一つ気になったのは、二つ前のトゥートに書いた、この「奉仕される側=男」の側に立った人達が、必ずしも楽しくないし、幸せでもないのでは、ということでした。ユルゲンシュミットの貴族社会をそういう目で見てみると、閨教育というものの構造的ないびつさや暴力性とか、アダルジーザの離宮に招かれた男達は「本当に」招きを喜んでいたのだろうかとか、そういう疑問が浮かんできました。

フェルディナンドという人間の中でこの二つの問題を重ね合わせてみた時、彼が何ら傷付かず、葛藤せずに大人になったという想定で何かを書きうるのか、私は分からなくなりました。原作の前提を揺るがすような設定を付加して二次創作をするのは、私個人としては抵抗があるのですが、しかし彼が初めてこのような問題に直面した時傷付いただろう、と考える方が、そうでないと考えるよりも説得力がありました。そういう訳で閨教育で恐ろしい経験をした、という設定にしたのです。離宮にいた頃に花たちと同じような扱いを受けていた設定にしようかとも思ったのですが、問題が違う方向へ展開しそうだったのでやめました。

(続)

R18同人誌の話(投稿内容は全年齢ですが一応) 

所謂「同軸リバ」にしたのは、愛し合う二人がセックスを通して「相手に愛されている」と感じるには何が必要なのか、私の中で結論が出なかったからです。ローゼマインとフェルディナンドがセックスをする時、ちゃんとフェルディナンドは「愛されている」と感じられるのだろうか。「受け入れられている」とか「自分のものにできる」とかではなくて、「愛されている」って思えるのだろうか、と。

セックスを通して、相手からの感情を受け止める側として幸福感とか充足感を味わう、というのは、少なくともフィクションにおいては「女性側」の特権でした。そう描かれてきたと思います。「男性側」の特権とは自分の欲望を(相手の身体を用いて)満たす充足感で、そこには何かを浴びせられるとか、与えてもらうとかする余地がありません。ある意味、道具を使って自分で自分の欲望を満たしているのに近い感じがします。

でもフェルディナンドという人が求めているのは「自分の思い通りにローゼマインを愛する」ことではなくて、「ローゼマインに愛される」ことのように思います。
(続)

R18同人誌の話(投稿内容は全年齢ですが一応) 

要は私も、奉仕する/されるの形式を脱したセックスが上手く描けなかったのです。奉仕し合うという形で二つを均すことでしか、「対等」を表現できない。分かち合ったり与え合ったりすることを表現できないと感じました。だからリバになりました。

「均す」ことには成功しているし、役割ありきのセックスではないものが書けた実感はありますが、ではこれで良いのかと言われると疑問が残ります。何かもう少し違う……挿入する側/される側、ということに依拠しない、与え合える男女のセックスってないのかなあ、いや、ある筈なんだけど、じゃあどうそれを表現したり描写したら良いのかなあ……と考えてしまいました。

R18同人誌を書きながら考えたのは、概ねそんなところです。

R18同人誌の話(投稿内容は全年齢ですが一応) 

全く違う話なのですが、官能小説におけるセックスの描写にも、純文学におけるセックスの描写にも基づかないセックスって書けるのかな、ということも思いました。読者にドキドキして欲しい、という意味で確かに二次創作のセックスシーンが官能小説に寄るのは納得できるし、私自身そのお作法を踏襲したのですが、書いてて非常に幅の狭さを感じたので、どうにかこうにかしたいよな……と。
かといって山田詠美とか花村萬月みたいなセックスシーンを書きたいかと言われるとそういう気にもなれないので、難しい、私は勉強が足りないなあ、というようなことを思いました。

終わり

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