フォロー

詩をめぐるもう一つの。(だからさっきのが流れてきたのかな?)
尹東柱の「序詞」の
모든 죽어가는 것을 사랑해야지
という一行について、翻訳に潜む権力性について。徐京植さんの文章。

「尹東柱が禁じられた朝鮮語で詩を書いていた当時の状況をリアルに想像する感性が伊吹にあれば、いや、自分の想像がとうてい現実に及ばないのではないかという謙虚さがありさえすれば、その詩が「実存凝視の愛の表白」であり、「軍国主義の日本人に対する憎しみなどかかわりがない」などと自信満々に主張することはできなかったであろう。」
「日本の多くの読者は…日本が植民地支配を通じて朝鮮民族に加えた害について詳しく知ることを望んでいない。だから、尹東柱の詩に出会う際も、…告発としてではなく、一般的な「実存的愛の表白」として読むことを好むのではないか。そうだとすれば、それこそが植民地的権力の行使なのである。」

徐京植「母語という暴力―尹東柱を手がかりに考える」

note.com/k2y2manabe/n/nf03caaf

ログインして会話に参加
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。