もう一冊は、『哀れなるものたち』(ルシア・ベルリンと並行読み)。映画観なかったら存在に気付けていなかったが、映画よりはるかにフェミニズムが咀嚼され濃厚なスープ状態で呈されていました。映画は何かを捨象しているのではという勘は当たった。すごく重要なポイントが翻案にあたってぼかされている。
まずベラが世界周遊の旅に出たのはダンカンとが初めてではない。そしてベラは、最初の世界周遊の際に避妊法を習得済。娼館のシーンは一瞬。娼館では結局一文も稼げなかった。帰省旅費は別口で確保した。ベラが医師になるための勉強を始めたのは「ハネムーン」前。
そして映画には、原作のほとんどコアと言っていい、最後のベラによる「補遺」がない。
この本を矢川澄子に読んでほしかった。少女、そうだ、これが少女なのだ、と言ってくれたような気がする。あくまで本作は著作ではなく底本を「編集しただけ」、補遺をつなげ注を付けただけ、という韜晦と悪ふざけたっぷりの構造にも目を輝かせてくれたことだろう(脚注も物語の重要な構成要素なので、読むのに栞が2本要る)。
高橋和久訳は、脚韻をちゃんと踏んで訳してるばかりか、音節数もたぶん限界まで揃えてきてる。これは胃を壊してもしょうがない。すごいよ。なぜって初期ベラの手紙、ほぼその文体だから…途方もない訳業。