自他の発達障害等々への考えに関するぐずぐず。
とても悪い癖なのは分かってんだけど、自分じゃ制御できない部分(例えば私の場合は「うつ」「発達障害」「不安障害」など)でやらかした人が、その制御できない部分の自覚を述べた上で「開き直りたくない」とか「免罪符ではない」とか言って落ち込んでいるのを見ると、私が責められているように感じてしんどくなる。
私は「自分の身体のせいではあるけど自分の意識のせいじゃないし、自分単体でそれを解決する機能は備わってないから、問題を解決するのに薬や専門家などの助けを得て当然」だと「割り切って」いるつもりなんだけど、「それは開き直って責任逃れしているだけだよ」って言う私もいる。その「私」が、最初に言ったような発言を見ると「ほらご覧」ってどんどん責めてくる。
もちろん落ち込みの発言主が悪いわけじゃない。素直に吐き出せて偉い。それに引きずられる私がとにかく悪いだけだからこれを読んでも落ち込み投稿を遠慮しないでほしい。かしこ。
返信伏せ
@hiyOaki
最近ADHDグループワークの参加検討していて見学行った時の話でなるほどなとなって、いまのひよあきにも必要かもなのでシェアする。衝動性が焦点の話だけど他の部分にも通ずるかもと思う。
個々人によって衝動性の表出の仕方はさまざまで、人によってはカスハラ・パワハラをしてしまっていてグループワークでそういう話も出るのよ。その場では絶対的にどんな話をしても受容されるという信頼を構築しているから参加者もあっけらかんとそうした話をしているし聞く側もなごやかなんだけど、本来そうした加害行為はコントロールできようができなかろうが法的にはアウトなものなんだよね(ここわたしもひよあきも馴染みがない部分かもと思った)。そういう表出をするひともいて、そのひとたちは自分のそのコントロールが極めて難しい衝動性についての社会的・法的な「許容されなさ」を理解して内面化した上で改善したいと思ってグループワークに参加しているという部分がなるほどなポイントだった(というか自分もそれに似た動機なんだなと気づいた)。「自分の特性によって不法行為をしてしまったが、とはいえじゃあ特性があったから不法行為は仕方ないよねっていうのも違う気がして……」という趣旨の発言がとくにそこが出ているというか、、文字数足りなくてごめん→
返信伏せ
@hiyOaki @hiyOaki
わたしとかひよあきは法的にアウト(というか他者への加害)な表出にたまたまなっていなかったけど、そうした人々もいるというのは理解の一助になるんじゃないかなと思って書いた。
今回のその方が加害側になってるかどうかとかそういう部分は関係なくて、「自分の行い(表出)」と「他者へ与える影響」のバランス感覚とかってけっこう人によってばらつきがあるんだと思う。
つまり、その人にとってはどうしても諦めたくない部分があってまだ努力したい、努力してコントロールすることで何か変わるかもしれない気持ちで歩みを止めていない(実際に変わるかどうかは未知数)という部分があって、他の人がどうとかというよりは自分に向いているんじゃないかなという気がして言及した。
それは自分がコントロールの難しいことに対して受容しているかどうかとは別の課題として存在している可能性、かつ他者がどうとかとも別の認識として存在している可能があるかもなというような……まあしらんけどそのひとのこと……そうじゃないかもだけど………日本語難しすぎてこのあたりがわたしの限界なんだけどどうかな、、伝わってる……?
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@mezzot ありがとう、読んでいるうちにちょと落ち着いてきた。ええと、発言主が問題視していることの「出来なさ加減」が私の認識と発言主の認識ではかなり違いがあって、私がその認識の違いフィルターをかけずに受け取ってしまうから私は自分まで責められたように感じてしまうけど、当たり前ながら発言主が持つ理想の自分像は私が持つ理想の自分像とは違うわけで、私は自分の言動や考えに発言主の落ち込み発言を投影して落ち込んでいるけど、そもそも投影しようがない話かもよって感じの理解で合ってる?
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@hiyOaki
そうそうそう やっぱひよあき解釈力まとめ力高いな……わたしもよくそこで気持ち落ちちゃいがちな側だからそんなうまく処理できてるわけでもないのでアドバイスと言えるほどのことではぜんぜんないけど🥲
自分たちは情報を高度に抽象化させたり汎化させたりするのが得意で、だからこそ抽象化の粒度をいい感じに粗くできない時あるのかもなってちょいちょい感じる。そこに至るまでの体験が違うから実は投影しようのないことって意外とあって、同じ特性による困りごとだとしても社会的立ち位置の違いから自分より社会的に困り度が高かったり理想としている自己との乖離は大きかったりするのかもしれない。もちろん乖離が少ない方が生きやすさはぐんとあがるんだけど、そのバランス感覚も人によっては違くて、乖離によって苦しみを強く感じる人と逆に向上心が増して生きがいとなる人もいるのかも。なおかつそれは自己に対するまなざしであって他者に対するまなざしとも違うかも。でもそれらを言葉にしていく時にすべての可能性を検討した上で言葉にはしていないから、ほんとは話者本人に限定されるシチュエーションにもかかわらず他者のケースにも当てはまるように見えてしまう構造になっているにすぎないのかも、みたいな話だった🙏
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@mezzot いや助言めちゃくちゃ助かったよ。ふむふむふむふむ、ありがとう、そうだよね。どうしても人の言葉を理解しようとするとき自分が基準になってしまうけど、人の心の中を窺い知る方法なんて本当は無くって、だから同じ言葉で表現したものが同じものであるとは限らないわけで。その認識を忘れずに自分と他人を区別しておかないと変に歪みが生まれてしまったりするんだな。まあ受け取った通りのものだったとしても「あなたはそうなんだね」で済ませられるようになるのが理想なんだけど……!!!!!!
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@hiyOaki
わかる、わたしもそれが理想……「あなたはそうなんだね」ってめちゃむずい🤤
なので最近は「相手の主語が大きめでもただぼかした表現をしたいだけで実際は自身のことについてのみ言及している可能性が高く、おそらく他者を責める意図がない」という部分になるべく着目して受け取る情報を選別するようにしてる、、(ぜんぜんできない時もある)
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@mezzot 情報の取捨選択大事だよね〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!
その着目はとても賢いから私も今度から取り入れていきたい。
あとちょっと話ズレるけど私は特性からして言外の意味を捉えるのがめちゃくちゃ苦手で、その自覚もあるのにどうしても考えてしまって不安障害も手伝って碌なことにならないから、なんとなく受け取れることがあってもなるべく無視して言葉通りの情報だけをばかみたいに信じる、って決めてんだけどなかなか難しくて修行中🥲🥲🥲🥲
あと「その言葉は全世界(またはマジョリティ全員)が同意するところとは限らない」もたまに忘れる。