生意気な顔をしている15歳になった子のことを振り返ると、日本でいう小4から小6まで、晩飯の時間ギリギリまで友達とほっつき歩いてた時期を彼が持てたのが一番良かったことだなー、と思う。自分もそうで、たぶんそれはその時期にしかできない最高の時間だったと思うからでしかないのだが、これは高校生や大学生になってもう少し知恵がついてからの似たような行動とは違う無我夢中な没入感があったという実感もあるからである。仲間と一緒に思うままに、思いつくまでもなく行動が行動につながり、誰が言い出したのかも忘れてしまった膨大なる無駄であまりに面白い遊びの積み重ね。とてつもない贅沢だ。子の場合はさらに友達の家に泊まりに行ったりうちで友達が泊まったり、という私はできなかったこともしていた。日本の家庭はあまりそのようなことをしない。うらやましくさえある。

そうやって育つ人間をそばで見続けることができたのは私が常にやらねばならない片親で、見続けることは責務でもあったが、それは私にとって自分の由来への回帰にもなっている。リカーシヴ。産んですぐ死んでしまった彼女がそれを見ることができなかったのが何よりも切ない。

現代社会がますます数値・合理性にばかり突き進んでいくなかで、計測でききれないもののなかにこそ潜む価値を慈しむ必要もあろうかと思います。もちろん現実の生活では、そういうことに意識を向けるだけの「魂」が欠如してしまった人が増えすぎているとは感じますが。

今ある自分の魂が、子から再帰的に定義づけられるというのは、まさしく真実ですね。(そこに彼女も同時に投影されていることも)

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つい最近結婚した娘の相手が、似たような環境で育ったこで、父親とのぶつかり合いも絶えなかったそうですが、彼が素晴らしい青年に育ったのは、この「再帰的」結びつきが家族の中に培われているからだと感じています。

ありがたいお言葉です。自律的作動としての魂と、その時間的な縦軸で連なる社会性、というようなことを思いました。

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