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市川房枝の「消極的戦争協力」神話、再び――の感あり。

「市川は戦後3年半、公職追放された。81歳のとき自伝で、戦争を止められず「消極的にしろこれに協力した責任を今更ながら痛感する」とした上で、国民全体が困難な時代に自分だけ「逃避」しなかったことを「悔いてはいない」と書いた」

この記事の特徴は、市川房枝が国民精神総動員運動をはじめ敗戦に至るまで、いったいどんな「協力」をやったのかを具体的に書いていないところ。そしてそれを婦人解放運動の戦略の問題として把握するアプローチが弱いところ。市川個人のチョイスの問題になっていないか。 

市川房枝が迫られた「三択」 ひたむきな活動は戦争協力に変質した:朝日新聞デジタル asahi.com/articles/ASSDV0FJNSD

例えば、市川房枝は『戦時婦人読本』(1943年)で「大東亜戦争に於ては、日本民族の優秀性がはつきり確認され、東亜十億の指導者としての地位が確立いたしました。…婦人は、今こそ民族の母としての自覚をしつかり持ち、量、質とも優良なる日本民族を産み、育成するやう努力しようではありませんか」とアジっている。

これも「消極的」戦争協力なんでしょうか?? これも「運動を率いてきた者として、戦時下に脅かされる女性と子どもの生活を放ってはおけない。選んだのは「ある程度の協力」だった」のでしょうか?

市川房枝も満洲事変の前は「反戦」やったんや。それが、国家の中枢で仕事できれば婦人参政の実現に近づけるじゃないかと(やや大雑把なまとめ)、課題の実現が権力への参画によって実現できるという(今もいるね、こういう人)、国策に寄り添うことを通じての婦人解放の道があるかに考え、その道を選択した。これこそが「悲劇」なのではないですか?

それを「戦時下に脅かされる女性と子どもの生活を放ってはおけな」かったからと言い換えることはできるのでしょうか。

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