電車の中で読んでいた黒川みどり『増補 近代部落史――明治から現代まで』(平凡社ライブラリー、2023年)を読了。amzn.to/3QFUy4E

本書の「平凡社ライブラリー版あとがき」で著者は、丸山真男が1961年にマルチン・ニーメラーのよく知られている箴言を引きつつ加えた考察を紹介していた(丸山真男「現代における人間と政治」、以下引用は『現代政治の思想と行動』(未來社、1964年)に拠る)。あらためて丸山に立ち返って読み直した。

丸山は、ニーメラーの箴言を引用した上で、こうコメントしている。

「けれどもここで問題なのは、あの果敢な抵抗者として知られたニーメラーさえ、直接自分の畑に火がつくまでは、やはり「内側の住人」であったということであり、しかもあの言語学者がのべたように、すべてが少しずつ変っているときには誰も変っていないとするならば、抵抗すべき「端初」の決断も、歴史的連鎖の「結末」の予想も、はじめから「外側」に身を置かないかぎり実は異常に困難だということなのである。しかもはじめから外側にある者は、まさに外側にいることによって、内側の圧倒的多数の人間の実感とは異らざるをえないのだ。」

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では、最初からその「外側」に置かれていた人間には、何が見えていたのか。

「もちろんナチの世界にあって、これを全体として「原理的」に批判していた人間、あるいはユダヤ人のようにはじめから権力によって法の保護の外におかれる蓋然性をもったグループ、さらにまたグライヒシャルトゥングの進行過程において、内側から外側にはじき出されて行った人間――要するにナチの迫害の直接目標になった人間にとっては、同じ世界はこれまで描かれて来たところとまったく異った光景として現われる。それは「みんな幸福そうに見える」どころか、いたるところ憎悪と恐怖に満ち、猜疑と不信の嵐がふきすさぶ荒凉とした世界である。一つ一つの「臨時措置」が大した変化でないどころか、彼等の仲間にはまさに微細な変化がたちまち巨大な波紋となってひろがり、ひとりひとりの全神経はある出来事、ある見聞、ある噂によって、そのたびごとに電流のような衝撃を受ける。日々の生活は緊張と不安のたえまない連続であり、隣人はいつなんどき密告者になり、友人は告発者となり、同志は裏切者に転ずるかも測り難い。ぎらつくような真昼の光の中で一寸先の視界も見失われるかと思えば、その反面どのような密室の壁を通してでも無気味に光る眼が自分の行動を、いや微細な心の動きまでも凝視しているかのようである」

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