「一般にあらゆる種類の混乱屋や神秘家がそうであるように、セクト主義者は、その一歩ごとに現実からしっぺ返しを受けるので、いつも激昂状態にあり、絶え間なく「体制」や「方法」に不満を唱え、しょっちゅう小規模な陰謀にふける」(トロツキー『過渡的綱領』)
ここ数年、これを思い知らされている。
1970年代の論壇誌に散見される「セクト」批判はテキトー「日本人」論とか「集団主義な日本人」観とかも援用されながら展開されているものがあったが、そんな民族的特性に還元しなくても、ある種の「政治」に必然的につきまとう普遍性を持ったものではなかったか。
セクト主義は左翼セクトだけ(2文字傍点)の宿痾ではなかった。埴谷雄高的「やつは敵である、敵を殺せ」テーゼを原理とする「政治」と不可分な・普遍的なものであったがゆえに、誰でもかんたんに堕ちる。