先日の政府による書店支援に対して本好きの皆さんが無批判にそれを受け入れてしまった構図、たぶん「本は素晴らしいものなのだから支援されて当然」というような、ある種の選民思想的な考えが無自覚に披露されちゃったものだとも思うんですよね。本好きの方々、よく「本を読まないなんてありえない」みたいなこと言うじゃないですか。そこにある傲慢さや暴力性にまったく気づかないまま、本を読めば良い人になれるとか読書は誰も傷つけないとか信じちゃう感じ。きっと毎晩パーティ参加してる人に「パーティに来ないなんて損してますし、社交性ないんですね」とか言われたらそういう本好きは怒るだろうけど、それと同じことしてるということには気づいてない。「本を読む我々は優れているが、本を読まないかれらはそうではない。そして本を読まない人が多いから社会は変わらないのだ」みたいなね。

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カフェでおしゃれな写真撮るくらいならその分の金を本にまわしたほうが有意義だろ、とか思ってるんだろうけど、そういう傲慢さをどうにかしないとカフェで楽しんでる客が本屋に来ることはないぞ、といつも思っている。

たまたま好きなものが本という知性の象徴のようなものだっただけで「善人」とか「有能」みたいな印象を獲得できるのだから、たまたま好きなものが「カフェでコーヒー飲んで写真撮る」だった人からしたら調子乗んなよって感じですよね。「映え」だけ追求してる知性的ではない人、とか思われちゃうんだから。

これは「差別をするのは知性のない者だ(知性のある私は差別などしない)」というような切り離しとも接続するものですよね。だからきっと本好きの多くは「自分は差別をしていない」と無邪気に信じてますよ。そしてこの感覚と接続するのが、道徳では100点満点の「誰も傷つけない」の精神ですよね。この「誰も傷つけない」は「いま/すでに傷つけられている者を助ける」ということを含んでいなくて、単に「自分の振る舞いが誰かを傷つけない」ことだけを考えているので。「自分は差別をしない(ので、差別問題に口を挟まなくてもいい)」ということ。むしろ差別を指摘することは「誰かを傷つける」ことになるので避けるべきこととされてしまう。

このナイーブさをどうほぐしていくか、というのが課題なんですよね。こういうナイーブさを持つ人を切り離してダメ人間認定したら同じ穴のむじななので。

こんばんは。「映え」云々はともかく、カフェは社交というか交流の場で、カフェ併設の書店は昔からあって、そういう書店は朗読や講演など市民活動の場にもなっていて、あらゆる文化の宝庫というか共有空間なのは確かなので、それらが街や地域からなくなってしまうのはどうにかしないといけないと思います。

本を「情報」として捉えるだけなら、代替手段としてのデジタルは利便性は高いですが全く同じにはならないので、優劣ではなく、どちらも必要ですね。

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