反差別反ヘイトの取り組みについての取材を受けてそれが記事になるのが、最近は嫌になってきてしまった。こちらが話したことの要点、あるいは力点を把握してもらえないまま記事にされている感がどうしても拭えず、しかしそれをすべて修正していくのはあまりにも徒労だし(無報酬だから)、仕方なく通しているものもあったりする。書き手の認識が周回遅れだと、こちらの発言も周回遅れなものに加工されてしまう感じがある。そうなると厳密にはそれは私の発言ではなくなるのだけど、記事を通してしかそれを読めない読者は私の主張として捉えることになる。なんともいえないモヤモヤ。

あと、こちらとしては当然のことしか言ってないとか、話したことが記事になる際にかなり単純化されてしまって少々危ういものになってしまっているとか、そういう感覚のある取材記事がSNSで称賛されているのを見ると、前者に対しては「はやくその先に行きましょうよ」後者には「記事に書かれてることを鵜呑みにして実践されるとだいぶ困る」みたいな思いになり、不安になる。

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とにかく称賛されたくない。「このひとの言うことなら間違いない!」になってしまうから。でもそういう効果を生んでしまう。

そもそも、いまだに「書店がヘイト本を置きませんと宣言するだけで称賛される」フェイズにいることが困る。その先に行かねばならないのにずっとそこにいる。わかりやすいヘイト本を配本制度を使わない独立系書店が置かないのなんて当たり前で、一見そうとはわかりにくいヘイト本とか、悪意はなくとも差別を助長する要素のある本をどう扱うのかとか、そういうフェイズの話をしなくちゃいけない。という話をしているのに、いつも「ヘイト本は置きません」だけ切り抜かれてしまう。

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