善意への信頼を回復できないまま反差別の実践をしていると、どうしても排除の方向でものごとを進めなければいけなくなる。なぜなら「被害者の安全第一」が守れなくなってしまうから。しかし排除の方向性を許せば「属性=加害可能性」という判断基準での排除=差別を許すことにもなる。それは「誰のことも排除しない」という反差別の目的と乖離する。
そして、反差別運動をしている者ほど被害経験があり、また十分なケアがなされていないままの場合が多い。トランス差別もペド差別も、反差別という同じ目標を掲げているにもかかわらず起きてしまうのは、このような理由があるからではないだろうか。
自論に対して異論や批判がなされたときに拒絶をしてしまうのも、他者の善意を信用できるだけのケアがなされていないからなのかもしれない。反差別という目的を同じくしているのなら、自論に不足や誤りがあるなら改善したいと思えるし、改善可能なはず。しかしそれを拒絶してしまうのは、その異論や批判が自分の「存在そのもの」を否定してくるように思えてしまうからではないだろうか。
であるならば、やはりなによりも重要なのは十分なケアになる。
差別に反対するのは、この「差別を受ける→他者の善意を信用できなくなる→排除の方向で安心安全を得ようとする→新たな差別のもととなる→差別を受ける」という循環を生まないため、生まれてしまったそれを断ち切るためなのだと思う。