とにかく細かく場合分けをして厳密に慎重に対象を絞って言及すべきなのに、大まかな括りだけで言及してしまう。するとそこにやってくる反論も同様に、厳密な場合分けがなされていない大まかで粗雑なものになる。故にそれへの反論もまた大まかで粗雑なものになる。その繰り返しによって、粗雑さが濃縮されていく。そして本来守られるべきだった者や、誠実な行動を取ろうとした者まで傷ついてしまう。そのうえSNSでは「誰がなにをどのような文脈でどのような意図=目的を持って言ったのか」がはっきりとしない状態でもその件について言及できてしまうため、上記の粗雑さは別種の混乱やすれ違いを生み、敵ではない者まで敵と認定してしまうことになる。
ここで問題を難しくしているのが、この「そもそも差別に反対する意思のない悪意の塊のような者」もまた「P差別に反対だ!(加害欲求を満たせなくなるのは困るため)」と言っていることであり、故に「PとCの区別がついているからこそそれを混同するのはやめてくれ(混同したら差別になるため)」と主張している者と、表面上の「P差別はやめろ」が同じになってしまっている。
そこに、「誰がなにをどのような文脈でどのような意図=目的を持って言ったのか」がはっきりとしない状態でもモノが言えてしまうSNSの性質が重なり、「性加害には反対」という立場を共有できている者どうしが、お互いの立場や主張の中身を確認することなく反駁し合うという状況になってしまっている。
しかし「PとCが区別できていない」者、および「P差別に反対だ!(加害欲求を満たせなくなるのは困るため)」と「PとCの区別がついているからこそそれを混同するのはやめてくれ(混同したら差別になるため)」が見分けられていない者は、表面上の「P差別はやめろ」という主張に対して同様に「P差別に反対するのは反差別じゃない」と反論することになる。そして、悲しいことに「PとCの区別がついているからこそそれを混同するのはやめてくれ(混同したら差別になるため)」と主張する者もまた、その反論が「そもそも差別に反対する意思のない悪意の塊のような者」による「P差別に反対だ!(加害欲求を満たせなくなるのは困るため)」を想定して(あるいは混同して)なされているものであることに気づけず、「Pを差別するな!」という主張を繰り返すことになる。
このボタンのかけ違いで、「差別に反対」という意思を共有しあえている者たちが疲弊している。
だから、自分が差別に反対という姿勢をとっており、かつそのための主張をして、そこになんらかの反論が来たとき、確認すべき大前提としては
①差別に反対である、それをなくそうという意思がある
というものになる。つまり①を共有できている者なのかそうでない者なのかの場合分けをここでする必要がある。
そして「○○を差別するな」という主張をしている者がいるときも、まず確認すべきはここになる。①を共有できていれば話ができるし、お互いの意見をより合わせてよりよい道が開けるかもしれない。しかし、共有していない場合は話をきく必要はない。
つまり厄介なのは、表面上は同じ「○○を差別するな」という主張をしていても、内実は①を共有していない者がいるということ。そこの判断を適切にしたうえで、批判すべき点があれば批判をする。しかしここがぐちゃぐちゃになったままでも言論を展開できてしまうのがSNSであり、その積み重ねが「いま」なのだと思っている。
自分の言説は誰のどんな振る舞いに対しての批判であり、かつその批判はどのような状況にある者に対してなされているものなのか、そういったことを明確にすること。つまり「細かく場合分けをして厳密に慎重に対象を絞って言及」する、ということを、みんなあらためて意識してほしい。だから、「ちゃんと事情追えてないし知識もあんまないんだけど」みたいな状況に自分があるのであれば、そういう状態で「公開設定で」なにかを言うのはやめてほしいし、それでも言うのであればそこになされた批判は真摯に受けとめるべきだし、そういう言説を見かけた他者はそこに書かれているあらゆる情報を鵜呑みにすべきではない。自分の思考や理論をクリアにするための試行錯誤は、センシティブなテーマを扱うときにはクローズドな場所でやってほしい。その試行錯誤を目にしただけで実存を脅かされる者がいるということ、忘れないでほしい。そして、自分がいま表明している批判はどのような主張をしている者に対してのものなのか、あらためて確認してほしい。その批判は、自分が想定しているより「大きな枠組み=批判されるべきではない者」に対しても届いてしまっているかもしれないので。
とりあえず、いま、私が言えることはここまでになります。
そもそも「PとCの区別がついているからこそそれを混同するのはやめてくれ(混同したら差別になるため)」と主張している者は、欲望を実際に行為として具現化したらそれは加害になってしまうことは理解している(だからP=欲望とC=実際の行為を区別すべき、と主張している)。そのため、実際の行為=Cはもちろんのこと、自らがP的な欲望を抱いていることが明白になるような振る舞い=行為をすべきではない(=ゾーニングが必要)、とも主張している。当然これはP当事者も同じで、自らの欲望が行為として具現化した途端に加害になることを理解している=差別や加害に反対の意思がある者は、ゾーニングの必要性含めて同様の主張をしている。
(本題から逸れるのであくまでも補足としてだが、P当事者がPであることを「わざわざ」公言せねばならない状況になるのは、PとCの区別がついていないが故に引き起こされる差別によって自らの生存が危ぶまれるからであり、その事態が生じなければ公言することはない。つまり、当事者であることを公言するという「加害(になりうる)行為」をさせているのは、すでにそこに差別があるという状況である)