出版社の作る帯問題、原因はつまるところ「その本を出すことで社会にどのような影響を与えたいのか/与えてしまうのか」という視点が欠如していることなんてすよ。じゃあなにを考えてるのか。その答えは「どうしたらこの本が売れるのか」なんですが、問題なのは「それしか」考えてないこと。ちなみに本屋も同じ。「この本を売ることで社会がどうなるか」は考えていない。メディア、あるいはクリエイターとしての自覚がなさすぎるんですよ。そのくせ「売れない売れない」言って狼狽えてる。
私の本の場合、①「誰に」→反差別の実践をすでにしている人(業界人もそれ以外も)と、反差別の実践をしたいけどどうやればいいかわからないでいる業界人、というのが最重要ターゲット。次に、そのあたりのことがわかっていない業界人。
②「どれくらい(規模)」→となると初版3000部は非常に妥当で、うまくいけば数年かけて1万部までいくかもしれないね、くらいの規模感を想定している。
③「受け取られ方」→当然、反差別の実践をすることや、社会のことを考えながら本屋をやること、そのようなことを意識してもらえるようになってもらいたいわけである。
という前提があるので、まずやってはいけないこととして「本屋の書いた本好きエッセイ」として見られる装いにしてしまうことがあげられる。ゆえに推薦文は人文系の要素が「ちゃんと」出る人に依頼した。あと、地味なところだとCコードという書籍分類を0036=社会にした。これによって大型書店で機械的に陳列されてしまうときにも「人文社会」の棚にいくようになる。装丁も担当の惣田さんに「本📕!!感が強く出過ぎない、しかし本屋の話であることは伝わるもの」みたいなことをお願いした。
画像説明は次の投稿で。
帯の文章の説明に移ると、表紙=表1にある
「どこにもない本屋をつくる」「世界をよりよい場所にするために、できることがある。わたしにも、あなたにも」
と、
裏側の表紙=表4の
「新世代の書店人による"みんなのための"本屋論」
この3つは編集の岩下さんが考えてくれたもの。
これは非常によくできた販促文で、特に「みんなのための」は、①「誰に」の部分のターゲットのすべてに響く可能性のある文言になっている。かつ「本屋はみんなのための場所である」という反差別反ヘイトのポリシーともダブルミーニング的なものになる。
そして「〜できることがある。わたしにも、あなたにも」の部分も合わせて、この本が「出版業界の人のみならず、読者であるあなたにも読まれてほしい=誰もがみな社会を変える力を持つ」ということを主張するものだ、ということをも、この装いから受け手が読み取れる可能性も生じさせる。
これは実際にその通りで、本の半分くらいは「本屋以外」の人に向けて書いています。なので本当のことしか書いていない。
続く→
佐久間裕美子さんの推薦文→子ども時代、立ち読みや長居を許してくれた近所の書店に差別と憎悪を煽るヘイト本はなかった。本屋は誰もが安心できる"ユートピア"になれるのか。lighthouseの試みに希望を見る
これは直球でこの本の目的①「誰に」③「受け取られ方」=どのように社会が変わっていくか、の2点に直結する文章で、これがあることで「招かれざる客」は来なくなる。→②「どれくらい」につながってくる。
そしてこの本はどうやっても初速はよくないし、スタートの段階から①「誰に」の「まだ反差別とかよくわかってない」人にまで届くとは考えられないので、まずは人文社会系に関心のある人に届けて、そこからの評価や言及によってその「わかってない」層にも「もしかしてこの本、自分にも関係あるやつ?」となってもらう、そういう流れにしたい。
そして装丁も「本屋っていいよね!(超ポジポジ)」みたいなゆるふわ肯定マジョリティ本として受け取られると困るので(ユートピアというワードがそれを誘引しかねない)、全体として暗めのイメージにしてもらって、そこに差し込むぼんやりとした、しかし確かに存在する光、のようなものにしてもらった。
もちろんこれがすべて伝わるわけではない。しかしこれだけ考えて作られていることに意味はある。
作品というのは「誰に」「どれくらい(規模)」「どのような受け取られ方で」届けたいのか、ということを意識して作られるからこそ質が担保される。「とにかく多くの人に」「どんな受け取られ方でもいいから」届けばいい、なんて意識で作られるものは結果として誰にも届かないし、届いたとしても社会によい影響は与えない。